Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー119

目の前に地味なスーツの女が一人立っていた。
40過ぎのその女は黒ぶちのメガネをかけ髪を後ろにきちんと束ねて黒いピンで留めていた。
アクセサリーも無ければ、化粧も薄い。
きらびやかな大広間に場違いなまでに飾り気がなかった。
周りの客や従業員は、女を完全に無視している。
それほど存在感がないのだ。
「いらっしゃいませ 犬飼様」
女が、頭を下げながら小声で挨拶をした。
犬飼は慌てた。自分の名前を知っている?一体誰だ?思わず変装に使っている口ひげに手がいく。
「ど、どちらさんでしたかな?」
見たこともない女だ。
女は犬飼の耳元に顔を近付けてきて小声で
「『3110』に申し付かっております。」
それを聞いた犬飼は女の正体に合点がいった。
「ああ、あんたが・・・」
どうやら書類一式をそろえて準備したのはこの女らしい。
そう思ってみると、いかにも秘書といった感じの女だ。
「なるほど、そうでしたか。本日はご招待いただきましてありがとう」
犬飼は皮肉を込めて笑いながら答えた。
「足元の悪い中お越しくださいまして、ありがとう存じます。」
女は、地下水道を意識してそういうと、
「どうぞこちらへ」
と歩き出した。
女に導かれるままに、犬飼は足を進めた。

分厚いカーテンの前に人の肩の高さほどある花瓶があり、豪華な生花が生けられてあったが、その向こう側のカーテンの間に女の背中がするりと消えた。
「なに?」
犬飼は周りを見渡した。
カーテンが僅かに揺れている。
誰も見ていないのを素早く確かめ、犬飼は、女の後を追って、カーテンの間に身を滑り込ませた。
壁だと思っていたところに、穴があり、細い廊下が伸びている。
その回り込んだところに捜し求めていたエレベーターがあった。
「なるほどエレベーターシャフトがわからない筈だ」
振り返った女がふっと笑った。
確かに平面図には犬と同様にカーテンも書き込まれていない。
犬飼は何度かそのカーテンの前をそうとは気付かず通り過ぎていたのだ。
エレベーターの呼び出しボタンの横には、キーパッドがある。
「ここからは暗証式になっています。」
女は犬飼に自分の手元が見えるように脇に身を引いてゆっくり番号を打ち込んだ。
エレベーターの箱が来て、静かにドアが開くと、やはり女が先に中に入った。
「で、お楽しみってのはこの下かな?」
「きっと犬飼さまのお気に召すと存じます」
十数秒の間、エレベーターが下へ降りていく揺れを感じていたがドアがまた開き、人気のないホールに出た。
先ほどのきらびやかなフロアと同じ建物とは思えない殺風景な廊下が左右に伸びている。
「見取り図をごらんになって、既にご存知だと思いますが、情報収集室はこの廊下の右側の部屋でございます。」
壁の影から覗くと屈強な男が二人ドアの前に立っていた。
「あの者たちは、何とか致しますが、私がご案内できるのはここまででございます。」
女が後ろから言った。
「ああ、助かったよ。」
素直に礼を言う犬飼に女は初めて少し微笑んだ。





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