刻の流れー122
- カテゴリ:自作小説
- 2023/08/18 21:34:27
犬飼は、エレベーターにさっき教えられた暗証番号を打ち込み箱を呼んだ。
どうやら、このエレベーターを使うのは限られた人間だけのようで、呼べばすぐに箱が来る。
「で、こんどはどこへ連れてってくれるんだ?」
4階のボタンを押しながらつぶやいた。
『チーン』
機械音が響くとエレベーターのスライドドアが開いた。こんどの廊下はまた、豪勢にだ。壁紙の臙脂色を基調として金模様が入っている。
3階の大広間のようなきらびやかさはないが、贅沢なつくりであるのには違いはない。
「これが、倶楽部支配人、田中の執務室があるフロアか・・・」
人気のない廊下の先に、いかにも支配人の部屋と思われる重厚な扉があった。
頭に叩き込んできた見取り図からしても、間違いない。
「またご大層なつくりだな」
分厚いオークの扉は細めに開いていた。
そっと押すと、扉は音も無く内側に開いた。
「至れり尽くせりだ」
せっかく鍵開けの道具を準備してきたのに、どうやら、女が自分の為に開けていてくれたと納得し、犬飼は部屋の中に足を踏み入れた。
静かに扉を閉めると、カチリと鍵がかかる音がした。
オートロックのようだ。かかとの埋まる、ワインレッドの床にマホガニーの家具。
窓にはビロードのカーテンが重々しく掛けられている。贅を尽したという言葉が相応しい部屋だ。
しかし、インテリアには知識も興味もない犬飼が見ても、どことはなしに、品がない。
「金のあるヤツのする事はよくわからん・・・」
部屋の中を舐めるように見渡していた犬飼の目が壁に飾られた絵で止まった。
『猫を抱いた少女』の絵だ。
「こ、これか?」
成金趣味の部屋の中で、その絵だけが穢れのない物のようにひっそり輝いていた。
絵の存在が確かめられて、犬飼は、やっと、一息ついた。
ポケットからまた薄い手袋を出してきて両手にはめる。
しかし、今度はルポライターの本能が囁く。
ひろみの身代金は退室時に失敬するとして、ここは何と言っても、支配人の執務室だ。
「一体何を隠しているか・・・」
まずは探索しない手はない。
犬飼はどう小さく見積もっても畳2畳分はあるデスクの引き出しに取り付いた。
「ほお、鍵はなしだな」
どの引き出しも、普通に開く。配線や、トラップと言った防犯装置もない。
よくよく考えてみると、厳重な警備の建物、そのなかの鍵のかかった部屋の中にある机に防犯装置をつけるのはばかげているのかもしれない。
「ふっ 同業者は入らないか・・・」
犬飼は、音を立てないように、そっと下から順番に引き出しを開けていった。
そうすれば上に上に引き出しを開けていっても視界が妨げられないからだ。
めぼしい物がないとすぐ次の引き出しを開ける。
気になるものは、どんどん写真に撮る。
犬飼は物の配置には神経を使った。物が少しでも動いていれば誰かが侵入したと悟られるかもしれない。
引き出しの中は几帳面なまでにきちんと整頓されている。
それがこの部屋の主、田中の性格なのだろう。
何事もきっちりとする性格、その中には非情さも含まれていることは見て取れる。
「嫌な性格だ・・・」
そうつぶやきながら、犬飼は最後に一番上の引き出しを開けた。
「ほお・・・」
犬飼の目に、一冊の大判の黒い手帳が嫌に光って見えた。
「ビンゴ」
犬飼の感がそう叫んだ。
犬飼は周りのものを動かさないように注意して手帳を取り出した。
持ち主によく使いこまれているらしく、黒い本皮の表紙が黒光りしている。
ページを繰った犬飼の口元が歪んだ。
そのページにはびっしりと数字とアルファベットが並んでいるが、読み取れるのは日付だけで、アルファベットはどうやら客の名前のようだ。
「暗号か・・・また編集長に無理を言わなけりゃならんなあ・・・」
先のページを見ると、その日の売上らしき数字とあと予約らしきページも続いている。
犬飼は、手帳を机の上に開いて置き、ミノックスの小型カメラを取り出た。
ページを繰りながら撮る。
普段使っているカメラと比べるとどうも頼りないシャッター音だが、それがスパイカメラの特徴だ。ボディを引いてフィルムを送る。
「このぐらいだな。」
犬飼は漸く、カメラを内ポケットに納め、手帳を元通り、引きだしに仕舞った。
「それにしても、こりゃあ、とんでもない紳士クラブだ」
これだけ証拠をそろえておけば、後は編集長がなんとでもするだろう。
「やっこさんの事だから・・・」
倶楽部を潰すぐらいの根回しはやってのけるだろう。
「・・・それでいいのか?」
ここまで来て、犬飼は急に不安になった。
もし、斎藤が、倶楽部の実権を握る為に犬飼を利用しようとしていとしたら、あいつがそれを喜ぶはずがない。そうなれば、ひろみの身は?
『今は、それは考えるな・・・』
頭の中で声がした。しばらくぶりの守護天使だ。
「ふん、やっとかえってきたか・・・」
『それより、ここから、脱出する方が肝心だ。』
「たしかにそうだな・・・」
うなずくと、部屋を出る前に痕跡が残っていないか注意深く確認する。
「おっと・・・」
犬飼は、黒いビロードの袋を背中から引っ張り出しながら、壁の絵に近づいた。
「これがないとひろみを救い出せないからな・・・」
犬飼は壁からおろした絵を額から外して、厚手の不織布で何重にも丁寧にくるむ。
それをビロードの袋に入れると、口をしっかり閉めた。支配人の部屋には窓が6つある。
犬飼は見取り図を思い浮かべて、その中から、丁度厨房の勝手口横の茂みにの上にあたる窓を選んだ。
部屋の明かりを落としてから、ビロードの重いカーテンをわけ、窓を静かに開ける。
犬飼は再びノクトビジョンを装着し、絵の入った袋を窓の外に出した。
額から外した裸の絵は面積の割に重量がないので、袋の底には錘をいれてある。
犬飼は窓から上半身を乗り出して、二本の紐でバランスを取りながら、袋が壁に触れないようにそろそろと袋を下に下ろしていった。
「静かに・・・手早く・・・」
外は幸いに無風だ。
建物のこちら側には明かりのついた窓は一つも無い。
それでも、4階の窓から下まで絵をおろすのはかなり骨が折れる作業だった。
用意しておいた紐が十分であったかどうか不安になり始めた時、漸く袋が茂みの上に届いた。
「よし」
手を離すと、紐は音も無く地面へ落ちていった。
「さて、絵は脱出できたが、次は人間様のほうだ・・・」
窓とカーテンを元通りにきちんと閉める。
「行きはよいよい、帰りは怖い、でなきゃあいいが・・・」
犬飼は、廊下に誰もいないことを確かめて、支店長の部屋を後にした。