Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー123

出版社は、いつもの事で、ほとんどの人間が出払っていた。

若い編集者が一人、暗室と編集室を行ったり来たりしている。
なにやら真剣に新聞を読んでいた編集長が椅子を回転させて窓を見やった。
日は落ちたが、まだ外は薄明るい。
桃色とパープルののグラデーションが空を彩っている。
「しかし、どうもおかしい・・・」
このところ財界人の訃報記事が異常に多いのだ。
確かにその財界人たちの年齢から考えればそれほど不思議ではないのだが、犬飼の手に入れたリストとかなり重複するのが勘に触る。
そのなかには編集長の顔見知りの代議士秘書も何人か含まれている。
編集長はリストのコピーに黒線を引いていった。
何本もの黒線がリストの上に乗った。
「う~~んっ」
目頭を押さえてから、頭の上両手を組んで背中を反らせながら筋を伸ばした。
目の前の時計は6時をさしている。
今ならまだ潜入前の犬飼が捕まるかもしれない編集長は読んでいた新聞をたたんで机の上に投げ、受話器に手を伸ばした。
連絡係のおっしょはんのダイヤルを回しながら、編集長は昼間、編集部に来た犬飼の事を思い出していた。

「今夜潜入する」
編集長の前の椅子に深く座って犬飼がようやくそう言った。
6日間、調べれば調べるほど、好奇心をとらえて止まない横浜の紳士倶楽部。
今夜はその証拠が遂に手に入れてくると言う。
犬飼は潜入経路、中での計画を詳しく説明していった。いつもの犬飼なら、そんな事はしないのだが、今回は事情があった。
「あんたに一つだけ、手伝って貰わなきゃ、なりませんよ」
犬飼が不本意そうな顔をした。
ネタはしっかり掴んでくるが、と前置きをして、
「絵を外に持ち出すのを手伝ってほしいんだ」
と、言った。
『3110』こと、斎藤が、犬飼の恋人、ひろみを拉致している事、その身代金として、絵を盗み出す事を要求しているのは、編集長も知っていた。
犬飼は、侵入経路は水路だが、一昨日斎藤から教えられた絵のサイズでは、どうしてもマンホールを通らないと言う。大きな絵を抱えて、正面玄関から出ることもできない。
「泥棒の片棒を担げってことか?」
編集長が難色を示すと、犬飼は別にがっかりした風でもなく、
「嫌ならいいさ。俺一人で何とかしますがね、ひろみは帰ってこないかもしれん・・・。」
と、言った。
「おいおい」
「それと、あんたがお待ちかねの情報も同じ運命ってことですよ」
と続ける。
「この俺を、おどすのか?」
編集長が睨んだ。
「頼んでいるんですよ」
家族も恋人もいない編集長に、大切な人と言うものがどういったものか、ぴんとこないのは仕方がないが、それでも、犬飼の必死な思いは伝わったようだ。
うーん、とうなった末、
「お前らしくないな。」
「で、どうしてほしいんだ?」
と身を乗り出した。

「絵がある田中の部屋は4階です。
盗むのは簡単でも、いたるところに警備員がいる建物から持ち出すのは難しい。」
「そうだろうな。」
「絵は、梱包して、先に4階の窓から外に出すつもりです。」
「15メートルほどの丈夫な紐がいるな?」
編集長が、ちゃんと話を聞いてくれているので、犬飼は頷いた。
「次は俺が何とか建物から外に出て、庭におろした絵を回収します。」
「そこからが問題だな」
「そうですね。絵がマンホールを通らない」
編集長は首をひねっていたが、
「キャンバスの枠から外して、丸めたらどうだ?」
油絵は絵を外側にして、筒を芯に丸める事ができると聞いた事がある。
「俺も、それは考えたんですが、素人がそんな事をすると絵を傷める事になる・・・」
『無傷』を条件にする斎藤が、許すはずがない。
「倶楽部の敷地は2メートルのコンクリ塀で囲まれていますが、鉄製の門がいくつかあります。」
犬飼は見取り図を広げた。
「この門は、鉄格子で、倶楽部の従業員や、出入り業者が使う通用門です。」
と、塀の一部をさした。
「絵を鉄格子の隙間から外に出すつもりか?」
「なにせ、この門が飾りがなくて一番シンプルなんでね」
犬飼が説明する。
「格子の幅は7センチ。額無しの裸の絵なら、問題なく通ります」
「なるほど、それを俺に外から受け取れと言うんだな。」
編集長は、頷いた。
荷物さえなくなれば、敷地内からの脱出はどうということはないだろう。
「警備員と、カメラは?」
「カメラは、ここ、警備員の詰め所が、これ。」
「うん、うん」
「カメラは、俺が何とかしますから、編集長には、この警備員の気をうまい具合にそらしてもらいたい。」
「何時だ?」
編集長が顔を上げる。
両目が獲物をねらうトラのようだ。
「真夜中、零時でどうです?」
犬飼も、不敵な笑みを浮かべている。
編集長は、視線を見取り図に落として、しばらく考えこんでいたが、
「よし、警備員と、絵の受け取りの事は、心配するな」
と右手を出した。
「じゃあ、証拠の方も、期待しといてください」
犬飼がその頼もしい手をぐっと握りかえす。
「頼むから、しっかりやってくれよ」
出口に向かって大股で歩き始めた犬飼の背中に、編集長が念を押した。
犬飼が首だけで振り向く。
「俺があんたを失望させた事がありましたかね?」
不敵なルポライターはそのまま、ドアの向こうに消えていった。





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