Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー129

支配人の部屋を出た犬飼は、エレベーターで3階まで戻り、大広間に繋がる細い廊下を小走りに移動していた。
犬飼は、来た道を逆にたどるつもりでいるのだ。大広間を横切って、サーバー用のエレベータで厨房に戻る。通用口から外に出たら、絵を回収しなければならない。
「時間は・・・・」零時15分前。
編集長との約束まで15分しかない。
この階で大広間をぬけてサーバーが使うエレベーターに乗り換えなければならない。
犬飼は、1時間前に秘書の女とくぐった重いビロードのカーテンを細く開け大広間の様子をうかがう。
その時、ものすごい騒音が外から聞こえてきた。
『ガラ~~ンゴロ~~ン』
何十もの大きな釣鐘が一斉になったかと思われるような音だ。
客達は我先に窓に駆け寄っていく。
犬飼はそのどさくさに紛れて、カーテンの間から大広間に忍び出た。
「何事だ?」
客の一人が通りかかったウェイターを捕まえて聞いている。
事情のわからないウェイターは困った顔をして黒服の一人に顔を向けた。
黒服は、さすがに落ち着いたもので、無線で二言三言、話してから、
「門の外で、交通事故があっただけでございます。お客様は、そのまま、お楽しみください」
と、頭を下げている。
「今の音は、編集長の仕業か?」
時間的にはそうに違いない。
急いで下に降りた方がよさそうだ。
客や従業員の注意が窓の外に集まっているのをよい事に、犬飼は難なく大広間を抜け出して、まんまと厨房に続くエレベーターに駆け込んだ。
手早くシェフコートを背中から引っ張り出して袖を通す。
『チン』
エレベーターのドアが開くと、厨房は1時間前と変わらず外の騒ぎなどお構いなしに大忙しで沸き立っていた。
料理器具や皿がぶつかり合う音、怒鳴り声。
案の定、犬飼が勝手口まで移動しても、見咎める人間は一人もいない。
外に出た犬飼はほっと息をついて、時計を見た。
「あと4分だ・・・」
素早く建物の周りの植え込みに目を走らせる。
「あった!」
さっき4階から袋を下ろすのに使った紐の端が茂みから少しはみ出ている。
犬飼は、紐を手繰って、袋を回収すると、紐は外してポケットにねじ込んだ。
「あと2分」
編集長と打ち合わせをした通用門は建物の横手にある。犬飼は走った。
「警備員は・・・?」
壁の影から、門のほうをそっと望むと、どうやら無人のようだ。
「編集長の旦那、うまくやってくれたようだ」
「よし、零時ジャストだ」
通用門横の木陰に身を潜め、犬飼がつぶやいた。ちらりと門の外に目をやる。人気がない。
「おいおい、編集長、なにやってるんだよ?」
その時、
「犬飼さん?」
外から、若い声が聞こえた。
「!?」
犬飼は身を硬くし、壁にはりついた。
誰だ?
「編集長は、建物の中に入りました」
声が言う。
聞いた事のない声だ。
犬飼は恐る恐る木陰から出て、門の前に立った。門の外には、痩せた若い男が立っていた。
「あんたは?」
「俺、新っていいます。編集長に頼まれて、俺がトラックをひっくり返しました。」
新が照れたように笑った。
服装は、黒いシャツに黒いジーンズ。
まだ少年のようなきらきらした熱い目をしている。
「へえ、さっきの騒ぎは、お前さんの仕業か?」
犬飼は少なからず感心して、新をじろじろと眺めた。
まだまだ若造のようだが、度胸だけはあるのかもしれない。
それはそうと、
「しかし、奴さんが中に入ってどうするんだ?約束が違うぞ・・・」
このお荷物はどうしろというのだ。
犬飼は足元の絵の袋を見て途方にくれた。
「俺が変わりに絵を受け取るように言われてます。」
新が、事も無げに言う。
「なに?」
ひろみの命と引き換えになる絵だ。
編集長の知り合いらしいが、初対面の男にほいほいと渡していいものか?しかし、これを持ったままここから無事に脱出することができるだろうか?
「・・・・」
犬飼が視線を足元に落として躊躇していると
「俺、その絵に、人の命がかかっているのは聞いてます」

新が続けた。
犬飼がその顔を見ると、唇をきっと結んで真直ぐ自分を見返している。
「この絵になにかあったら・・・」
犬飼が新を睨んだ。
「俺はお前を地獄の果てまででも追いかけるぞ」
「安心してください」
新がにっと笑った。
『この男、誰かに似ている・・・』
犬飼は思った
。『そうだ、神戸に置いてきた、あの若者に似ているんだ・・・』
「そうか、じゃあ、頼んだぞ」
犬飼は鉄格子の間から、絵の袋を新に渡した。





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