Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー131

編集長と別れた犬飼はさっきと同じ経路でもう一度、厨房の勝手口から外に忍び出ていた。
「奴さん、余計な回り道をさせやがって・・・」
犬飼は苦笑した。編集長の事だ、他人の撮った写真ではなく自分の目でも現場を見たくなったのだろうが、おかげで犬飼は危ない橋を無駄に2回渡る事になったのだ。
相変わらず人気のない庭を通って、マンホールへ向かう。
「ぐうー」
という寝息が聞こえてきた。
ちらりと、茂みに目をやると、まだ犬たちはうずくまって寝ているようだ。
時計を見ると12時半を回っている。その時、
「シタッ シタッ シタッ・・・」
犬の足音が聞こえてきた。
「なんだと?」
睡眠薬から覚めるには早すぎる。
犬のほうをもう一度見ると、3匹ともまだそこにうずくまったまま微動だにしない。
「しまった、もう一匹いたのか!」
不審者に気付いた犬が一直線に向かってきた。
「がうぅっ ガフッ」
犬の匂いがわかるくらいに近い。
ステップを右に左に切って躱しながら犬飼がマンホールに飛び込もうとすると同時に犬がスラックスに食らいついた。
右手で払う。
ちょうど裏拳が入ったように手応えがあった。
「きゅっ」
犬が後ろに飛ぶ。
その隙を突いて犬飼はマンホールに飛び込み蓋に手を掛けた。
重い蓋を閉めきる前に犬が前足を突っ込んできた。
爪で引っ掛けようとしたのだ。頬に痛みを感じ一瞬血の臭いを嗅いだが、
『ガゴン』
と蓋は閉まった。
「はぁはぁ」
息切れがひどい。
マンホールの外ではさっきの犬がグルグル回りながらフッフッフッと鼻先をマンホールにつっこもうとしている。
「やれやれ 一安心だ」
しかし休んではいられない。
犬飼は気持ちを奮い立たせてステップを降りて闇に消えていった。

ホテルの一室にコツコツと指で机をたたく音が聞こえる。
この男にしては珍しくイラツいているようで、何度も電話に目を向ける。
どこかからの連絡を待っているようだ。
サイドテーブルの時計に、見るともなしに目をやって
「1時か・・・」
とつぶやく。
ルポライターが潜入したと秘書から連絡があってからもうすでに3時間近い。
とっくに連絡があってもいいころなのに一向に電話は鳴らない。
「彼女に限ってヘマはなかろうが・・・」
支配人不在の倶楽部内に彼女を傷つける危険因子はないはずだ。
しかし、なにか不測の事態が起こったとも考えられる。
田中が倶楽部を離れている今こそ、あの絵を手に入れる絶好の機会だと思ったのだが、男は、秘書を使った事を今頃になって後悔していた。
絵がなくなっていることで、支配人は、秘書が手引きした事を突き止めるかもしれない。
いや、彼女の背信をもう知っていて、単に泳がせているだけとも考えられる。
そうなれば、相手が女であっても倶楽部の制裁は非情である。
男は、いつもの彼なら鼻にもかけない事を心配しているのだ。
イライラの原因はそこにあるのだが、男は自分が秘書を気遣っていることに全く気づいていなかった。
「絵など、どうでもよかったのだ・・・」
普段の彼を知っている人間が聞いたら耳を疑うような言葉が、唇から漏れたその時、不意に電話のベルが鳴った。
「RRRRR」
男はすぐに受話器を取り上げた。
「・・・」
警戒した雰囲気が辺りに漂う。
受話器の向こうで、女の声がした。
「絵は無事に運び出されました」
「よろしい。明日、受け取りに行くつもりでいてくれ」
男はそれだけで電話を切って口元に笑みを浮かべた。
すべて目論見どおりに話は進んでいるようだ
しかも帰りがけの駄賃のごとく、長年狙っていた絵も手に入った。
犬飼たちが倶楽部の存在を世間に暴露する事で、これから横浜は蜂の巣をつついたような騒ぎだろう。
そう思うと目元が緩む。
店が閉まるまではいかないまでも、かなりの打撃を受けるであろうし、逮捕者も相当数出るだろう。
男にしてみればマスコミに悪行を暴かれて、横浜がどうなろうと一向に構わない。
ようは、田中支配人の関心がこちらからそれればいいのだ。
男はクルリと椅子を回して窓のほうへ歩み寄り、カーテンを両手で思い切りよく開いた。
眼下に広がる夜景は美しくはあったが、神戸のそれではなかった。
「ふふふっ ふははははっ」
男の笑いが部屋に響いた。





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