Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー132

編集長が出版社に戻ったのは次の朝9時をかなり回っていた。
「長い夜だった・・・」
と伸びをする。
ふと見ると、デスクに小さなメモがおいてあった。
『機材、借りました』
とだけ書かれている。

どうやら、犬飼がフィルムの現像、焼付けをやっていったらしい。
「勝手知ったるなんとかか・・・」
編集長は、受話器を取っておっしょはんに電話を入れた。
「も~しもし」
聞きなれたおっしょはんの声がささくれ立った心を鎮めてくれる。
「おお、俺だよ」
「あら、今朝はお元気そうねえ」
朝に弱い編集長らしからぬ声の調子に、おっしょはんが電話の向こうでくすくす笑った。
編集長は久しぶりに若さを取り戻していた。
さすがにこの年になると血沸き肉踊るなんてことは滅多にないことだが、昨晩のエキサイトメントは違った。
小気味いい話を誰かに聞いてほしいと、少年のように興奮しているのが、声に出てしまったようだ。
もちろん、全てを話すわけにはいかないが、無難な場面を選んで自分でも思い出し笑いをしながら面白おかしくおっしょはんに話すと、おっしょはんもころころと笑う。
「ところでやっこさんから連絡は?」
「昨日の夜、2時半ごろにあったわよ」
さっきまでの笑いを収めながら、おっしょはんが答えた。
「えっと、『鍵は右上のひき出し』って言ってたわ」
確認に引き出しを開けている間も、おっしょはんが伝言を続ける。
「それと、『絵は無事に受け取った』」
編集長は引きだしの取っ手に手を掛けたまま立ち上がった
「おおっ それよ その話よ」
思わず声が大きくなる。
何がうまくいかないとしても、絵を盗み出すのに失敗する事だけは気がかりだった。
ひろみの命がかかっているというのに成り行きとは言え、見ず知らずの若者に電話ひとつで任せてしまったのだ。
「やれやれだな・・・」
どかっと椅子に腰を下ろした編集長の耳に、おっしょはんの声が響いた。
「そうよ ひろみちゃんの命がかかってるんだからね」
冗談のような口調で、実は諭すような、それは、まるで母親が息子をたしなめる声だ。
ひとしきり話を終えて電話を切り、しばらくすると、編集者達がぼちぼちと出勤して来た。
その中に昨夜留守番を頼んだ男をみかけて編集長は声を掛けた。
「おお、昨日の晩はごくろうだった」
男ははれぼったいまぶたの顔で
「『今朝』の間違いじゃないですか?1時半でしたよ!」
と口を尖らせた。
「それに犬飼さんまで来るなんて、聞いてませんよ!」
とぶつぶつ言う。
「おまえ、犬飼をにも会ったのか?」
編集長がデスクから乗り出した。
「犬飼にもって、二人そろってお越しでしたよ」
現像を手伝うよう頼まれたという。
「ったく、山のようなフィルムでしたよ!」
と、暗室に入っていく。
しばらくして、
「これ、犬飼さんがおいていった分です」
といって、ベタ焼きの写真を数枚持って出てきた。
「それと、昼ごろここに来るっておっしゃってました」
「よしよし」
編集長は、機嫌よく写真を受け取った
「ほおお、あの大臣も好き者だな・・・」
次から次に写真の上に虫眼鏡を走らせる。
編集長はどうしても、倶楽部のやっていることよりも倶楽部に来ている客のほうに興味を寄せるようだ。
しかしさすがに装置の写真になると編集長の目の色が変わった。
放送局で使う3/4インチのデッキにテープの山、通常弁当箱と呼ばれる大きさのテープ、それをつまんで尺を短くしてアフッたであろうVHS。
デッキにSONYがあるならカメラはプランビコンを使った3管式だろうと想像がつく。
かなり設備に金をかけていることがわかるのだ。
「まぁ 金を生む為のシステムだからなあ・・・」
編集長自身はもともと貧乏記者出身だし、編集長になった今でも、設備投資には糸目はつけないなどと言える経営状態には程遠い。
こんな贅沢な装備は知ってはいても、手が届くものではなかったが、アナログ人間の強みと創意工夫で乗り越えてきた。
一通り目を通した写真をデスクに投げて、編集長が目をこすった。
「うーん、それにしても腹が減ったな・・・」
前に何か食べたのは、真夜中に倶楽部の大広間で出されたオードブルと酒だけだから腹が減って当然だ。

編集長は店屋もののメニューを見ながら由喜のカツどん特上に目を止め、
「カツどん大盛りだ。おいっ、お前らも何か食うか?」
と、周りに声をかけた。
朝10時に丼ですか、などと異議を唱える者は一人もいない。
普段碌なものを食ってない編集者たちはここぞとばかりに、
「おごりですか?じゃ おれ うな丼、肝吸い付き」
「おいおい、俺より上等を頼む奴があるか!」
慌てる編集長を無視して我も我もと注文を書き出す。
編集者の一人が電話をとって、注文を始めた。
編集者の士気は上がったが編集長の財布は確実に凹むということだ。
「くそっ お前ら遠慮っちゅうもんを知らんのか集長は、たまらず怒鳴り声を上げたが、その顔は笑っている。笑いながら昔は、自分もそうだったな、と思い出していた。





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