Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 豊臣の花嫁』の考察して寝ます


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 月曜日はホントにつらいーー。記憶がドンドン、飛んじゃうようー。夏ドラマも最終展開だし、その間隙をぬってバスケにラグビーだし。今月は「秋ドラマ」も決めなきゃなんかないようー。

 では、まずは「豊臣の花嫁」の考察します。

  •  ・ 数正は、閑職まで覚悟だった ということなのか??この時点での合戦では負けるということまで読んでの出奔ということ??松重恐るべし。
  • ・「旭姫」の描き方って、どのドラマでも映画でも、ああいう扱いなんだよなー。現代配慮のNHKなのに、BL・GLまでありなのに、「ルッキズム」はモロ、コンプラ抵触じゃん。なんだか、東海人蔑視がヒタヒタ感じるよな。女性はみんな縮れ毛なの??
  • ・「大地震」はノーケアでした。ドラマ性あるよねえ。当時の建築手法からすると、被害はすんごいんだろうね。これも家康にはプラスに使えるのか。大阪城でもダメだったんだ。
  • ・織田信雄はつくづく憎たらしく映るのは、キャスティングがうまいせいと冷静に観ます。
  • ・徳川家臣団内の演劇シーンは段々と定着化してきちゃった感ありますが・・・。若手が暴走して年寄りがなだめる繰り返し。「どうする」が年間タイトルだからね。しかし、今回は評定に於愛参加がアリかよー。
  • ・数正が置いて行ったものの謎。「是、天下人也 の意味は?」「押し花の上にあった、正信・・・集?」「結局、仏像を焼いちゃった?のはなぜ?」

  •  次は、上洛?ということは、京都?でもあの大広間で頭下げるから大坂?まあ、どっちも行くんだろうな。
  • ムロツヨシ以下の親族が縮れ毛ということか。そういえば秀吉の父は不明?ということなのか?今回、東海圏の評判はどうなんだろうなあ。いつも北海道は無関係だけど。

                      かな?
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2023/09/07 17:19
於愛の方の評定参加は、本来はあまりよろしくない筈。
だからドラマでも窘められてました。
ただ、この時期の於愛の方は多分正妻扱いだったと思われます。
彼女は西郷局(さいごうのつぼね)とも呼ばれてましたが、家忠日記によればこの頃は西郷殿とよばれています。
女性の呼び名に「殿」が付くのは、基本的に正妻だけです。
家康の最初の妻築山殿然り、今川氏真室の早川殿然り。
正妻である築山殿と嫡男信康が亡くなった後、新たな嫡男となる長丸(後の秀忠)の生母である於愛の方が正妻に格上げになったのではないか、と考える事はそう不自然な事とは思えません。
ドラマでも瀬名から後事を託されてましたし。

そもそも、一夫一妻制が基本となり、正室以外の愛人を側室と呼ぶ様になったのは江戸時代以降といわれていて、戦国時代は一夫多妻制が基本。
正式な妻と呼べるのは正妻と別妻(二番目の正妻)で他は妾という区分だった様ですけど。
正妻の権限は大きく、奥向きの取り仕切の他夫と共に家の経営にも携われました。別妻は経営には携われなかった様ですが。妾は閨のお相手というだけで基本は召使と同じ。

於愛の方は築山殿の死後は正妻扱い、旭姫輿入れ後は別妻、ただ旭姫は形式上正妻ですが多分お飾りなので、事実上の正妻は於愛の方、と解釈しても良さそう。
正妻なので本来はあまり褒められない事であってっも評定に参加する事を禁止されている訳でもない、と考えても良い気がします。
伊達輝宗の正室義姫など、戦に介入して夫輝宗に和議を結ばせた、という逸話があるくらいなので、評定に参加する位、どうということはないのでは。

まぁ、於愛の方は若死にするので、余命は劇中時間で3年程しかありませんし。
「どうする~」のサイトを見ると、次の側室阿茶局(あちゃのつぼね)がキャスティングされてます。
登場は於愛の方の死後だと思いますが、側室になった時期はあまり変わりません。阿茶局が一年遅い程度。

家康の側室は分かっているだけで22人いますので、実は20人の秀吉より多いです。
その割に、秀吉ほどには好色なイメージが無いのが(十分好色なんですが)、不思議と言えば不思議。
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2023/09/07 16:39
夫(佐治日向守または副田甚兵衛。副田説が多い模様)と離縁させられた上での輿入れなので、かなりの気鬱状態だった事は間違いないと思いますが。

秀吉の母大政所が岡崎に差し向けられたのは、上洛を決めた家康に対する秀吉のサービスの様なものではないか、と思われます。三河物語によれば、家康はそこまで求めてはおらず却って恐縮した、という意味合いの記述がありますので。

家康が比較的早くに臣従の方針に傾いたのは、小牧・長久手の戦いで戦術的には勝利したものの政略的には敗北(戦いに勝って勝負に負けた)でしたし、その前年には50年来の大水(水害)が起きており、領民に餓死者が出るなど領内はかなり厳しい状況だった事が無関係とは言えない気がします。
家臣団は一部(石川数正とか)を除いて対秀吉強硬派が多かったものの、家康自身は「やばいな~」と思っていたかもしれません。
そこへ駄目押しの数正出奔が重なった為に臣従に傾いたのではないですかねぇ?
ええ、「全部数正の所為」「数正のあほたわけ」となるんですね。

私は頭がお花畑らしいですので(ネットに書かれてました)、家臣団と家康が泣きながら「数正のあほたわけ」と連呼しているシーンで涙腺崩壊しました。
「数正の所為」が「数正のおかげ」に、「あほたわけ」が「ありがとう」に聞こえて来るくらいでした。
お花畑だろうがなんだろうが、これが私の感性です。
涙腺崩壊は、三方ヶ原以来2回目ですね。

旭姫は残されている肖像画を見る限り、特別不細工というわけではありません。お市の方や築山殿は文句無しに美人と思える肖像画ですが。
縮毛なのは、今作オリジナル設定ですね。
大政所が縮毛なので、母方からの遺伝なのでしょう。秀長は直毛っぽいですが、父親似ということにしているんでしょう。
縮毛はアジア人には多くは無いとはいえ、かの「源氏物語」にも逆説的表現で縮毛について書かれていますので、一定確率で存在しておりましたし。

数正が仏像と共に置いていった小箱に押し花と共に入っていたのはお経です。
正式名称は読み取れませんでした。
築山の象徴としての押し花は、よく出来ていると思います。
瀬名存命中、季節の移ろいや月日の経過を、築山に植えられている花で表現する演出が多々ありましたので。
春の桜や撫子、冬の水仙等々がそれ。
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2023/09/07 15:53
当時の人の考えでは、天災(今回の場合は地震、当時の呼び方は地揺れ)は為政者の不徳が招く、というものがありましたので、対応を間違えると劇中で寧々が言っていた様に足元を掬われかねないんですよね。
また、「どうする~」の秀吉は傲慢で不遜な人物として描かれているので、大きな被害を受けなかった家康に対して「運のいい奴」と思っただけの様でしたが、実際の秀吉はどうだったでしょうか?
信長同様に秀吉も合理的な天才だったと思いますが、地震のシステムを知らない400年前の人物である事に変わりはありません。
徳川討伐を決めた直後の大地震に、人知が及ばぬ存在の意思を感じた可能性は否定できないのではないかと思えます。まぁ、当時の心情を示す記録はありませんけど。
「鎌倉殿~」で頼朝が天に守られている、と言われていましたが、家康に対して秀吉も同じ様な事を感じたかもしれないですよね。
私見にすぎませんけど。

ともあれ、この地震の後、秀吉は討伐ではなく懐柔へと舵を切ります。

徳川家康を扱った歴史小説やドラマにおいては(「どうする~」も同様でしたが)、秀吉が妹を嫁がせ、母親を人質に差し出すという、譲歩に譲歩を重ねた結果家康が重い腰を上げて上洛する、とされているものが殆どだと思います。
「おんな太閤記」、滝田栄氏の「徳川家康」の時もそうだった筈。
ですが、これは江戸時代になってから確立した徳川史観によるものであって、当時の記録とは異なります。

当代記には、秀吉と家康の入魂(じっこん。和解する、仲良くするという意味)の為三介殿(織田信雄の事)が岡崎にやってきて、家康も浜松から岡崎に出向いて対面。両者の対面は非常に良好で、二日後に三介殿は尾張に帰還した、とあります。
この時点で家康は秀吉に臣従する方針に傾いていた、と解釈出来ます。
ドラマでは信雄を詰ってましたけどね。
他の資料(松平家忠日記など)でも、多少記載内容は違いますが、ほぼ同様の事が記録として残っています。
秀吉の妹旭姫の輿入れは、家康の臣従する方向だという意思が伝えられたからではないですかね。
(もっとも、上洛しないなら妹を返せ、其の時は干戈を交えるぞ、という最後通牒も込みだった様ではありますけど)
ですから、実際の旭姫はドラマほどのプレッシャーではなかったかもしれません。
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2023/09/07 15:07
こんにちは^^

秀吉の徳川討伐の意思を懐柔へと転換させた、1586年1月18日(天正13年11月29日)発生の天正地震。
現代でも未だに震源の特定が出来ておらず、多分飛騨の辺りでM8クラスだったのでは、と推測されている程度。
被害地域は広く、後の濃尾地震を上回っている事から、複数の断層が同時に動いたと思われます。
日本中断層だらけですが、中部地方にも多いですからね。

ところで、NHKの「歴史探偵」で、残された記録から各地の震度を推定していましたが、面白いくらい、というと語弊もありそうですが、秀吉支配地域と家康支配地域での震度の差が大きいです。
岡崎辺りは震度4程度で、岡崎城にも大きく崩れる様な被害が出なかったのに対し(浜松はもっと軽微だったのでは?)、飛騨・美濃・尾張・伊勢などに大きな被害が出ています。

飛騨の代表的被害は、帰雲山が山体崩壊を起こすほどの大規模土砂崩れによって帰雲城及びその城下町が完全に埋没した事。埋没地点は、現在でも明らかになっていません。
また、帰雲山の土砂崩れ跡は、400年後の現在においても明確に残っています。
土砂崩れによって、帰雲城の主である内ケ島氏は城ごと埋まって一族滅亡、城下町の住人も全滅の憂き目に。
助かったのは、当時所用で土地を離れていた4名だけだったとか。

美濃では大垣城が全壊焼失。徳川討伐んも為に備蓄されていた兵糧等の戦略物資も同時に喪失。
越中では、木船城が倒壊。前田利家の弟前田秀継夫妻他多数死亡。
尾張では清州城が液状化によって損壊、蟹江城が壊滅。
伊勢では、対徳川の前線基地になる筈だった長島城が倒壊。この城は織田信雄の居城でしたので、信雄は清州城に移らざるを得ず、またその清州城も液状化の影響で大幅改修の必要に迫られました。
近江長浜では、長浜城が全壊。山内一豊の娘与祢姫が崩れた天井に圧し潰されて侍女と共に死亡。これは大河ドラマ「功名ケ辻」でも描かれていました。
同じ近江の坂本城には秀吉が滞在中でしたが、地震を畏れて大坂に逃げ戻っています。

その他にも被害多数で、若狭湾や伊勢湾では津波が起きたと言います。
プレート型地震ではない、内陸部の断層型地震の筈ですが、複数の断層がずれていますので海に達している断層があったのかもしれません。

この様に大被害であった為、秀吉は徳川討伐どころではなくなった訳です。




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