Nicotto Town



時時勤払拭

心をととのえるスヌーピー 6回目です。


心をととのえるスヌーピー」を書いているのは、実はチャールズ・M・シュルツ自身です。翻訳は、おっとビックリの谷川俊太郎です。

なのですが、シュルツはどうにも禅語の意味、ニュアンスを上手く捉えられていないのかなとも思います。という事なので、本書の内容は鑑みつつ、独自に話をしていきます。



時時勤払拭



これは中国の禅僧の神秀が記した偈の一部です。全体としては以下。

身是菩提樹 (身はこれ菩提樹)
心如明鏡臺 (心は明鏡台の如し)
時時勤払拭 (時時に勤めて払拭し)
莫使有塵埃 (塵埃を有らしめること莫れ)

※余談ですが、お釈迦様が悟りを開いたのは印度菩提樹の下で、日本の菩提樹とはまったく別種の木です。。

時時勤払拭とは、人は本来は鏡の様に清らかであるが、そのようにあり続けるためには常に汚れ埃を取り払い、鏡を磨き続けなければならない、というような意味になります。ある意味で、まさに「心をととのえる」とうことですね。

心を整える、というのは、特殊な事ではないと思います。
心の整え方というのは、その状況や内容によって色々とあると思いますが、日々常に、という事で考えるのであれば、わたしは生活の流れ、所作を常に一定にすることの中に「時時勤払拭」は在るのかと考えます。

毎日、決まった時間に起きる(前日に明け方まで飲んだくれていても…)
決まったものを、決まったところに、決まったように整える
常に磨き、常に拭き、常に片付ける

それはルーチンワークとは違います。

自らの在る世界を、常に一定の状態に保つということです。その保たれた様子の中でこそ、騒めく心の乱れを補正されていくのだと思います。

乱れた中に新たな乱れを投げ込んでも、乱れは益々と増すばかりです。静かに保たれた状態にあるからこそ、乱れを感じ、そして乱れは静謐に吸収されていくのだと思います。
穏やかに保たれた常態あるからこそ、些細な変化や小さな新しい何かに気が付き、自分の生きている状態を少しづく自然に更新していくことが出来るのだろうと思います。

というと、お坊さんが座禅でも組んでいるかのようなイメージかもしれませんが、そういうことじゃないかなと。

例えば、全然違う話をすると。

激しく戦うコンタクトスポーツ。
試合に臨むにあたり、気持ちのテンションを上げて闘争心を膨らませていくのは、もちろんそうでしょう。でも、テンションを上げるという事と、エキサイトしてしまうことは違います。
どれほど気持ちが高ぶっても、常に練習と同じように冷静で俯瞰的な部分を残し、自分の状況や相手の乱れを読み取り、その都度に体を動かしながらも冷静に頭を回転させ、自身の乱れは整え、相手の乱れは攻撃していく。
普段から騒がしく、落ち着きがなく、身の回りが乱れ、段取れず、取り乱し、後悔し、文句ばかり言うような人が、試合の時だけ乱れのない動きが出来るなどということは、100%ないですよね。


人は常に日々の生活に右往左往していく。
身の回りの状況そのものは、自身とは関係なく動いていく以上は、その中にいる自分が外からの影響によって右往左往してしまうことは不可避です。それは別に問題ではないでしょう。
でも、そういう右往左往の状況に遭遇した時に、直ちにそのことに気づき、乱れることなく対応に動けるかどうか。それは、常に乱れていない状態を保つことで異変を鋭く察知し、異変に取り込まれず自分をセルフコントロールできる準備が常に保たれているかどうか次第。

話が少し偏りました。

時時勤払拭とは、プロセスではなく結果なのだと思います。
実は時時勤払拭は、よしやるぞ!と思ってやることではないのです。
よしやるそ!と思ってやることは、ある意味でただのイベントです。

常に乱れを払拭し、常に整える。
その結果として、何ということなくただ生きているだけで、時時勤払拭の状況を保てている。息をするように、気が付いたらそのように在る。

そういうことじゃないのかなと、思います。
出来ないけどねw

ということで。
ではでは。




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