Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー133

犬飼は胸を締め付けられる夢を見ていた。
目の前に、高さ5mはあるコンクリートの塀が聳え立っている。
犬飼は入り口を求めて、塀に沿って歩き出した。行けども行けども入り口はおろか、曲がり角さえ見つからない。
高い塀だけが延々と続いている。
「早く、助けて・・・」
塀の向こうからひろみのうめき声が聞こえてきた。
この中に、ひろみが居るのだ。
犬飼はたまらず走り出した。
「今、助けてやる・・・、まってろ・・・」
曲がり角のない塀はどこまでも続く。
だんだんと息が切れ、走る速度が落ちてくる。
足が重く、上がらなくなってきた。
「助けて、助けて」
ひろみの声がどんどん大きくなって頭の中でこだまするようだ。
ヘトヘトになりながらも走り続けようとしているところで、ようやく目が覚めた。
「夢か・・・」
セーフハウスに使わせてもらっているガレージの隅で、電話が鳴っている。
「くそっ 誰だ?」
這うように電話機までたどり着くと、犬飼は受話器を取った。
「もしもし・・・」
すかさず向こうから聴きなれた女の声が流れてきた。
「犬飼さん、おはよ~」
「ああ・・・おっしょはんですか・・・」
のんびりとしたおっしょはんの朝の挨拶で犬飼の頭はすぐにフルスロットルになった。
ガンガン頭が覚醒していく。
おっしょはんはそんなことはお構いなしに
「今ね、『3110』から電話があって、絵とひろみちゃんの取引を纏めたいっていうの」
「ふん、早耳だな」
犬飼が絵を手に入れた事は、倶楽部のあの秘書から既に報告がいっているという事だろう。
「11時にもう一度電話するって。来れるわよね?」
時計を見ると10時だ。編集部に先に行こうと思っていたが、そのヒマはなさそうだ。
「いいですよ。じゃあ、そっちに先に行きましょう。」
その後、編集部にまわって編集長のおごりで昼飯にありつけば完璧だ。
「じゃ、まってるわね。ちゃんと顔は洗うのよ」
『がちゃっ』
受話器が置かれた。
昨夜、地下水道を通って倶楽部から抜け出し、路地に停めていた車に飛び乗ったのが1時前。
そのまま真夜中のハイウェイをガンガン飛ばして出版社のある雑居ビル近くの駐車場に車をいれ、ビルまで全速力で走った。
「早く絵を手にしたい」
逸る気持ちを抑えられなかった。
犬飼が雑居ビルのガラス戸を開けると、入り口横の暗がりに大きな袋を大事そうに抱えた若者が立っていた。
若者は入ってきた犬飼に気付き、袋を抱えたまま、右手を上げた。
黒いGパンに黒いTシャツ、そのシャツの胸の辺りにルート66と刷られている。
1時間半前に倶楽部の通用門で絵を渡した新と名乗る男だ。
犬飼は新の方へ近寄りながら、
「今、来たのか?」
と聞いた。
自分は、編集長のばかのおかげで庭と3階と一往復した上、地下水道を移動している。
いくら高速を飛ばしたとは言え、こっちの到着が半時間以上遅れていて当然だ。
ここで会う事がおかしい。
「俺、こいつは犬飼さんに直接渡ししたほうがいいと思いました」
と、ビロードの袋を差し出す。
「ああ・・・」
犬飼はそれを大事そうに受け取った。
新が編集部に絵を置いて、さっさと帰っていると、犬飼は思っていた。
そう思うからこそ慌てて絵を引き取りに来たのだ。
「気を使わせたな」
頼まれた以上の事を考えてやるこの若者に犬飼は少なからず好感を持った。
新もそれを感じたのか少し照れながら
「でも、ちょっと早く着いたんで、待っちまいました」
と、控えめに答える。
「まあ、ここで立ち話もなんだからな。上に上がろう」
自分が先にたってエレベーターホールでボタンを押す。
新はエレベーターを待つ間も無駄口をたたかずに犬飼の後ろで待っていた。
チンと音がしてスライドドアが開くと犬飼が先に箱に入り、それに続いて新も乗り込んだ。
「何階ですか?」
「知ってるだろう」
犬飼はちょっと意地悪く言う。
肩をすくめた新は何も言わずに7階のボタンを押した。
『やれやれ・・・この若者はどこまで知っているのやら・・・』
犬飼は新の横顔を見た。
身長は170くらい、オールバックにした髪が似合う。
話し方だけでなく、見た目や服装もアキラに似ている。
『東京は広いな。こんな若者がいくらでもいる街なのだろう』
そんなことを思っているうちにエレベーターは7階に到着してスライドドアが開く。
新は降りると先に立って出版社のドアのほうへ迷わずに進んで行く。
「鍵は持ってるのか?」
犬飼が聞くと、
「留守番の編集員の方が居るときいてます」
と答えた。そのとおり、新がノブに手を掛けると、ドアは問題なく開く。
新はタイミングよく一歩下がって犬飼が先に中に入るのを待った。
「こんばんはー、荷物を持ってきました」
新が事務所の奥に向かって声を上げた。
少し間をおいて、中で物音がし、休憩室から編集員一人が目をこすりながら出てきた。
「遅かったですね」
髪がぼさぼさで、服装も乱れている。
どうやら、仮眠を取っていたようだ。
「あれ、犬飼さんも一緒なんですか?」
と、驚いた顔をする。
「ああ、偶然ビルの前で会ったんだ」
犬飼は適当にごまかした。
新が気を利かせて自分を待ってさえいなければ、この編集員はとっくに退社できていたはずなのだ。
「しかし、君がいてくれて助かった」
とにやりとする。
この編集員がなかなかの現像の腕なのを知っているのだ。
顔見知りのルポライターの意味ありげな笑顔をみて編集員は嫌な予感がした。
「ちょっと、手伝ってくれるかな?」
と、犬飼はフィルムを求めてポケットをまさぐる。
右のポケットから5本、左から5本、内ポケットからさらに5本と、見る見るうちに編集員は両手で持ちきれないほどのフィルムを押し付けられた。
「ええええええええ」
と泣きそうな顔をする。
「俺が焼くよりおまえさんのほうが腕がいいからな」
編集員も、こう言われては引き受けるしかない。まんざらでもない顔をして、暗室へ向かった。
犬飼は、暗室のドアが閉まるのを待って、絵の袋を机におき中身を慎重に取り出した。
それは犬飼が支配人の部屋で袋に入れたままの状態ででてきた。
白い不織布と緩衝材を注意深く取り払うと犬飼は絵に触れないように顔だけ近づけてまじまじと見た。
『猫を抱く少女』
優しい眼差しの少女の膝で猫がじゃれている。
見る人の気持ちを穏やかにする絵だ。
絵画に興味のない犬飼が見ても、その価値がなんとなくわかる。
絵にダメージがない事を確認した後、犬飼はカメラを出して新しいフィルムをセットした。
「記念撮影だ。新、ちょっとたててくれ。」
新は両手の汚れを着ているシャツでぬぐい、キャンバスに触れないように枠を持って絵をおこした。
『カシャッ カシャッ カシャッ』
数回シャッターの切れる音がした。
「これで、あとは『3110』の連絡を待つだけだ」
犬飼は憎々しげにそうつぶやきながら、新のほうに向き直った。
「ありがとよ」
新はそれには何も答えず一礼してから封筒を差し出した。
「なんだ?」
犬飼が訝ったが
「請求書です。編集長さんに渡してください」
手渡してから新は
「では、失礼します」
そう言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。その絵がいまは再び梱包されてセーフハウスのソファーの上に無造作におかれている。
「取引を纏めるか・・・」
犬飼はふらふらとシンクまで行った。
蛇口をひねり、がぶがぶ水を飲む。
頭から水を被るとやっと完全に目が覚めた。
頭を振って水気を切る。
「それは、こっちものぞむところだ」
身繕いを整え終えると犬飼は絵の包みを抱えてブルーバードに乗りこむ。そして、まだまだ蝉の声が残る住宅街を後にした。





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