Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー135

東横線の妙蓮寺の歴史は古い。
現在の横浜市神奈川区神明町に1350年(観応9年)、波木井善太郎が日輪を開山上人として、この寺院の前身の一つである妙仙寺を開いたといわれる。1908年(明治41年)妙仙寺が横浜鉄道臨港線(現:JR横浜線)敷設のため、移転を余儀なくされ、当時の住職・日體は菊名池畔にあった蓮光寺と合併する事で、移転先とした。その際、両寺院から1文字ずつ取って妙蓮寺が誕生した。1926年(大正15年)寺の敷地内を東急東横線が通る計画となった時、当時の住職は再度の移転を嫌い、東横線に寺の敷地内を通らせる事を選択した。代わりに妙蓮寺前駅(現:妙蓮寺駅)を作らせた。そのため、駅前の一部は今も寺の土地である。  

『3110』の言う喫茶店はその寺の裏側、人通りのまばらな裏道にぽつんとたっていた。すこし早めに着いた犬飼が店内をぐるっと見渡すと、狭い店の隅に、女が一人腰掛けて、紅茶を飲んでいた。きっちり後ろで纏めた髪に、黒ぶちの目がね、地味な服装。昨夜の秘書だ。女が目を上げて、犬飼を見た。 

「いらっしゃいませ」 
カウンターの向こうからマスターが静かに声を掛けた。ウエイトレスはいない。 
「コーヒー、頼むよ」 
そう注文しながら犬飼は秘書の前の席に腰を下ろした。 
「昨夜はどうも」 
秘書の顔を覗き込みながら言う。
女は、軽く会釈をしただけで、黙っている。
店内には早い昼飯を食べに来ている客が数人いたが、マスターが犬飼にコーヒーを持ってきた時分には食事を終え、出て行ってしまい、残ったのは犬飼と秘書の二人だけになっていた。 

「ご無事でなによりです」 
マスターがカウンターに戻っていくのを待って、秘書が口を開いた。 
「無事が心配だったのは俺のことではなく、こいつのことだろう?」 
犬飼は皮肉を言いながら、絵が入った袋を持ち上げた。 
「犬飼さんに何かあったのでは、絵は手に入りませんもの」 
秘書がにこりと笑う。
美しい笑顔だ。犬飼は一瞬女の表情に見とれていたが、 
「あまり時間がないんだ。早いとこ、調べてくれ」 
と、袋を開けにかかる。
女は、テーブルの上のカップや花瓶をすべて隣の席に移動し、自分の鞄から出してきた大きな柔らかい布をその上に広げる。 
「ここにおいてください」 

犬飼が不織布を取り除いた絵を置くと、秘書は食い入るように絵を調べ始めた。
犬飼は手持ち無沙汰だが、隣の席に腰を下ろしてコーヒーをすすりながら待つしかない。
カウンターをちらりと見ると、マスターはイヤホンをして小型テレビを観ている。しばらくして秘書が顔を上げた。 

「満足いただけたかな?」 

秘書は犬飼の問いに静かに頷いた。不織布と緩衝材で絵を元通り包み、それが終わると自分が持ってきた大きな鞄の中にそっと収める。
「ありがとうございました」 
秘書は頭を下げると、鞄を持ったままカウンターの横の公衆電話に近寄って電話を掛けた。相手が出たようだ。 
「絵を受け取りました」 
秘書はそれだけ言って、受話器を置き、犬飼の近くまで戻ってきた。 

「ひろみさんの乗ったひかりは新横浜に12時22分に着きます」 

犬飼はちらっと時計を見る。時間は十分だ。 
「わかった」 
「田中支配人が、今日横浜に戻られるそうです」 
秘書が続けた。 
「・・・あの・・・、ひろみさんはまた倶楽部に狙われるかもしれません」 

心配そうな顔をしている。 
「ああ、ほとぼりが冷めるまで身を隠させるよ」 

「それと、犬飼さんも・・・」 

女は犬飼を気遣うように下から覗き込んだ。
その眼差しは、一週間あまりにわたって、ひろみを拉致監禁し、犬飼を脅迫してきた一味の女のものとは到底思えない。
犬飼はじっと秘書を見詰めていたが、 

「結局、あんたたちは、倶楽部から俺たちを守ってくれたという事かな?」 
ぽつんと言った。秘書が一瞬驚き、目を伏せる。 

「ご武運を」 
昨夜と同じ言葉を繰り返し、秘書は喫茶店を出て行った。 





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