『どうする家康 天下分け目』音尾琢真さんがあー!
- カテゴリ:テレビ
- 2023/11/07 00:52:14
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道産子の大河代表の音尾琢真さんが遂に散ってしまった・・・・。紅白歌合戦の司会が大泉洋さんの交代に続いて北海道民には寂しい年末になってしまったあ。壮絶な最期覚悟で見始めた今回、ラスト
このあとの関ヶ原、大坂の陣もあるけど、北海道では今回が神回でしょう。
では、「天下分け目」の考察です。
- ・まずは嫁の「稲」。親父のコピーは良いなあ。その後の半生はわからないけど、幸福な余生を祈ります。
- ・真田じいじの孫との別れもいいねえ。子役がちゃんと眠たそうに目をこすって出てきてたね。
- ・しかし最後にじいじが音声が無しで何かを言っていた。大勢には影響はないんだろうけど、くちびるが読めなかったので気になるーーーっ。
- ・またまた上田合戦シーンは短尺でスルー。山岳戦はロケが大変だもんなあ。つまんないー。
- ・次は秀忠遅延事件。結局突き詰めると、真田の忍びのお手柄ってこと?プロが奪った書状を素人が取り戻せたってこと?ちょっと今後の世継ぎ問題がらみなのに薄いな。
- ・小山で山之内一豊が初登場。けどこれが最後なんだろうか。この一声で大評価だもんな。
- ・さて伏見城・・・。
- 総論、音尾元忠の散り方としては合格!嶋右近は要所で出て来るし、血天井もこれかあと思わされました。
- ・千代の設定も長きに渡り仕込んできて、最後は見事な立ち回りと演技。この子これから大役来るよね。
- ・最期をあえて映さず、銃声で終わったのも効果的で◯。
- ・小早川は今回はくせ者。毛利は最後の一言でのボヤかし。という伏線はったよね。
- ・それにしても、島津の伏線は無しで関ヶ原に突入ってことなのか?大谷吉継はもう歩けないみたいだった。
- ・今回も「家康の次男」「家康の三男」の表示の強調が出てたね。後継ぎでひと悶着で使うんだろうね。
さあて、来週どれだけ予算をぶっこんだのか!!信玄、秀吉戦より手を抜くはずないよな。大坂の陣の分もあるか。今回はあえて飛び込むらしい関ヶ原。更なる奇策って何のことなんだろう?刻々の戦闘シーンに大期待です。
かな?
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今迄は気弱で優柔不断と描かれることが多かったですが、実際はどうだったのか分からないですからね。
養父の小早川隆景には可愛がられていたといいます。
秀秋は北政所の甥(北政所の兄の子)で、子供がいない秀吉の養子になりますが秀頼が産まれると小早川家に養子に出されてしまった人物。
最初は毛利家に打診されたものの、その時点で毛利家の後継者は決まていたので小早川家が養子に迎えた、といういきさつがあります。
秀秋は秀吉に翻弄された人生と言って良く、秀吉の養子になった事で各大名からの接待攻勢にあい七歳から飲酒を始めたそうです。
それが秀頼が産まれた途端に養子に出され、豊臣の養子だった頃の知行地は取り上げられ、更に朝鮮出兵時の不手際(実際は瑕疵はなく秀吉の言いがかり)を責められ小早川家31万石も15万石に減らされる始末。こちらは秀吉の死後、家康の計らいで元の石高に戻されています。
この様な事情がありますので、秀秋は豊臣に対して反感があり、家康に対しては恩義がある、と考える方が妥当だという気がします。
秀秋は家康の会津征伐に参加する為に上洛してきて、そのまま西軍に組み込まれていますが、心情としては親徳川だったのでは?
まぁ、この時代の武将は皆自分の家が一番大事なので、どちらにでも転べるようにしていた可能性は否定しません。
毛利輝元も、積極的に西軍に参加した割には家中の親徳川派と反徳川派を秤にかけているところがあります。
徳川の後継でひと悶着はあるのかな?
秀忠の関ケ原遅参に激怒した家康が、重臣たちに誰が後継者として相応しいか尋ねた、という逸話は有名ではなりますが、これも後世の作り話らしいんですよね。
本多正信が結城秀康を推し、井伊直政が徳川忠吉を推し、大久保忠隣のみが秀忠を推した、というものですが。
重臣に尋ねたと言うなら、本多忠勝や榊原康正の意見は? と言いたくなります。
家康自身は秀忠を守成の人と評していて、父の命令に忠実で真面目な性格は後継者として相応しい、と疑っていなかったと思われます。
守成とは、物事を維持・発展させていく事で、創業は易し守成は難し、という言葉があります。
出典は貞観政要という唐時代の書で、唐の太宗(李世民)と魏徴ら臣下との政治的議論を分類したものです。
ドラマでは真田の忍びにしてやられた事になっていましたが、豪雨で河を渡れなかった為の様です。
指示自体は8月29日に出されたというので、何事もなければ十分間に合った筈なんですが、秀忠君運が悪かった。
初陣の相手が表裏比興の者(昌幸のこと)というのも、生真面目で実直な秀忠君とは相性が悪かったですね。
合流指示を受けた秀忠は、上田城の抑えの為の兵を残して急いで西進する事になりますが、そのあたりは次回でしょう。
今回最も盛り上がったのは、やはり伏見城の戦いです。
さあ、泣け、と言わんばかりのベタな演出でした。
伏見城の戦いでは、実は島津や小早川が味方をする、と申し出ているんですが、城を守る鳥居元忠はそれを拒否し、配下の三河以来の家臣達とだけで戦いました。
島津にしろ小早川にしろ、元忠からすれば一面識もない相手ですので(どちらも西国の大名)味方になると言われても信用できなかったわけです。
城に引き入れて万が一裏切られたら、城はあっという間に陥ちてしまいます。
元忠としては、危険な賭けにはのれなかったのでしょう。
小早川は伏見城攻めに参加したものの、パフォーマンス以上の事はしなかったそうですが。
伏見城の戦いは、ドラマ同様に鉄砲を撃ちあうものだったらしいです。
この場合、ドラマが史実に忠実だったと言うべきでしょうか。
島左近清興らしき人物が大鉄砲らしき大口径の鉄砲を撃っていたのはどうなのか? と思いますけど。
明智光秀が鉄砲の名手だったという話はありますが、島左近がそうだったという話は寡聞にして聞いたことがありません。
三成が自身の知行の半分を出して左近を家臣としてかかえた、という逸話は有名ですけどね。
元忠の最期は、雑賀孫一こと鈴木重朝との一騎打ちに討ち取られたとも、自害であるとも伝えられています。
ドラマで元忠の最期が直接表現ではなく一発の銃声だったのは、彼を討ち取ったのが鈴木重朝が秀吉の鉄砲頭だったからでしょうか。
ドラマには登場せず、島左近に役柄を奪われてしまいましたが。
これは万が一の裏切りがあった場合を考えたリスク管理ですね。秀忠に榊原康正や本多正信、大久保忠隣(色男こと大久保忠世の息子。忠世はこの時点で既に亡くなってます)などの重臣をつけたのもその為。
ちなみに次男結城秀康は、上杉軍に備えて白河で待機です。
家康が秀康を嫌っていて武功を立てさせない為に後方に配置した、という話もありますが、多分あまり信憑性は無いかと。
秀康は勇猛な武将だったらしいので、家康は秀康を信頼して万が一の備えにしたのでは、と思っております。
上杉軍に後背を襲われたら徳川は大打撃を受けかねませんので、それを考えると今回が初陣の秀忠やその弟の忠吉に任せると言う選択肢は無かったでしょう。
さて、中山道を進む秀忠は家康から真田の上田城を陥とせ、と命じられます。
真田も会津征伐に加わる筈だったのですが、嫡男信幸は徳川に着陣したものの当主昌幸と次男信繁は上田に帰還してしまっています。
帰還の途中、あわよくば沼田城を乗っ取ろうと謀ったものの信幸の正室小松姫(本田忠勝の娘でドラマでは稲)に追い返されたのは多分ドラマ通り。「真田丸」では吉田羊さんが演じ、同様に昌幸・信繁父子を追い返してましたね。
昌幸が唇の動きだけで何を伝えていたのかは、残念ながら私も読唇術の心得は無いので分かりませんでした。
別れの言葉かな? とは思うのですがどうなんでしょう?
さて、肝心の第二次上田合戦。
秀忠が関ケ原の合戦に遅刻する事になった原因で、少数(2000程度)の真田勢に大軍(3万8000)の徳川勢が大敗し、秀忠が無能を晒した戦いだ、と従来は言われて来ました。
関ケ原遅参の要因の一つではありますし、大軍でありながら上田城を陥とせなかった事は事実です。
ですが、上田城を攻めたのは父家康の命令でしたし(以前は秀忠の独断にされてましたが、家康の命令を遵守しただけ)、戦いも別段大敗はしておりません。
降伏すると申し出ながら掌返しをする昌幸に翻弄された面は否定できませんが、戦い自体は小競り合いが大半でした。刈田狼藉を阻まれたのは実話ですがそれを行ったのが信繁かどうかは不明で、これもまた小競り合いの域は出なかった筈。
上田城が堅固である事で秀忠がいったん小諸に軍を退いたところ、で家康からの使者到着。
今回の「天下分け目」は小山評定、第二次上田合戦、伏見城の戦い、の三要素で構成されていました。
それぞれにもう少し尺が欲しかった気がしますが、いざ長尺になると冗長な感じになったかもしれない、とも思いますので、結局丁度良いバランスだったのかもしれません。
さて、小山評定からです。
会津征伐に向かう途中で三成挙兵を知らされた家康は、現在の栃木県小山という場所で、会津征伐を続行するか中断して西に取って返し三成を討つか、という決定を下すべく会津征伐軍諸将を集め評定を開きました。
世にいう小山評定です。
会津征伐軍を構成しているのは徳川麾下の軍だけではなく、福島や黒田など所謂豊臣恩顧の大名が多かった為、家康の独断で軍を好き勝手には出来ませんでしたので、その為の評定でした。
この評定で、福島正則がいの一番に徳川殿に従って三成を討つ、と宣言しそれに山内一豊が続いたのはドラマ通りです。
ただ、一豊は自身の城である掛川城(今川氏真が籠城していた城です。懐かしいですねぇ、ついにここまで来ましたか)を徳川に献上するとまで宣言し、他の諸将も次々に追随した、というシーンが無かったのは残念。「功名が辻」の時は一豊の見せ場の一つだったんですが…
一豊と言えば、今回の一豊の猛々しさと言うか熊っぷりと言うか、従来のイメージを完膚なきまでに覆され驚きました。
良くも悪くも、私の山内一豊のイメージって「功名が辻」で上川隆也氏が演じられたやつだったんですよね。どちらかといえば優男系。
残されている肖像画を見ても、さほど猛将感は無いですし。
ここまで語った小山評定ですが、実は実際にあった事かどうかはっきりしません。
江戸中期の軍記物に語られているだけの作り話だ、という説が近年出てきております。
今の所、小山評定があった事を裏付ける一時資料が無いのも事実。
ただ、後世のフィクションだ、と言い切れないところもある様で、現在研究者たちが正に侃々諤々と議論をかわしている真っ最中と言えるでしょう。
個人的には実話であって欲しいですね。
何と言ってもドラマチックですから。
小山評定が実話であれ虚偽であれ、西に取って返す決断をした家康はここで軍を二分します。
先にも書きましたが、一応東軍となった大名達も豊臣恩顧の者が多く、家康としては完全に信用は置けません。