『どうする家康 関ヶ原の戦い』ついに来たあー
- カテゴリ:テレビ
- 2023/11/13 01:00:30
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明日も降雪予報の夜、凍えながら書いてます。まだ電気ストーブでかわしてますが、まだ石油ファンヒータの本格出動まで、我慢の日々です。
先週の音尾琢真さんの壮絶退場も冷めないうちに、もう徳川家康と言えば最大のヤマ場の「関ヶ原合戦」が終わってしまいました。感想は後述の・・・。です。
では、いよいよ「関ヶ原の戦い」の考察です。
- ・冒頭の回想シーンで懐かしの合戦が出ましたが、日本最大の合戦にもかかわらず、過去の「小牧・長久手」とか「長篠」の方が、合戦ロケとしたは勝ってました。
- ・グダグダの毛利は、どこかの段階で凋落完了していたという今回の解釈だろうか。
- ・最後まで井伊直政のヒゲはなじめなかったなあー。
- ・合戦の日、「加藤清正」「真田親子」は何してたんだろ?
- ・嶋左近の消息はあえて不明のまま固定?これは後日、とんでも展開アリの伏線??
- ・合戦直前、「思う存分、楽しみましょうぞ!」の繰り返しは後段の三成最後の発言の伏線か。
- ・井伊直政の出撃直前の会話で「最期フラグか?」と思ったが、生還。それにしても四天王で最大石高家臣なのに二の腕細過ぎー。
- ・阿茶の動きは実話??大坂の陣での交渉役ずあるから、初対面じゃなくするための布石だけのこと・・・。
- ・島津は布陣図だけはセンターで出て来たが、合戦シーンでは出ず。戦場中央突破で九州まで駈け続けるんじゃなかったっけ?さらに井伊直政は本当に迎撃して負傷?さらには、島津は減俸無し?
- ・大谷刑部は最期、立って切り合っていたあー。
- ・三成と家康の対面は、最後、全く無言説は消えたあー。門前でさらし者も無し。
- ・三成の最後の言葉の意味は、「戦闘本能は消せない。」合戦前の「思う存分」発言につながる。そして「まやかしの夢を語るな!」。これは築山殿の頃からの仲良し平和構想への批判がここで出て来ました。この松潤家康は、残り回でこの批判と自信・家臣団の本性をどうすり合わせるのでしょうか??
- ・放映後のニュースでの「白百合学徒隊」の画像が、同じNHKの放送だったのは皮肉に感じました。
残りは5回??
予告編でいよいよ秀忠遅参が問題化か?「真田丸」並みの大坂の陣は望めないものの、北川劇場の幕引きは力入れるんだろうなあ。
結論としては、受験日本史、PCゲームでも最大の盛り上がりの最大合戦がタイトルの回としては「✖」。なんか肩透かしで先週比でもガックリ回。CGも蛇行更新と乗馬シーン合成も相変わらずだったしなあ。
さて「鎌倉殿の~」ような劇的最終回はあるのかあーっ?
かな?
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阿茶局の動きは、たぶんドラマオリジナル。
大坂冬の陣での和議成立に尽力したのはしじつですけど。
関ケ原での島津の退き口はあまりにも有名。
捨て奸(すてがまり)の策で、島津義弘は養老山地を抜けて堺まで行き、そこから海路で薩摩まで戻ったとか。
流石にその間ずっと馬を駆けさせ続けた筈はないですけどね。物理的に馬が保ちません。
島津が本領安堵で減封もなかったのは、その交渉の巧みさ故でしょう。
義弘が交渉相手に選んだのは、井伊直正です。直正は島津によって負傷させられましたが、僅か千騎で多大な犠牲を払いつつも当主を無事に国許に帰還させた島津兵の強さに感じ入っており、島津に対して好意的だったらしいです。
また、千騎で強さを見せつけた島津は、主力一万が健在。結局家康はそこを恐れたんでしょう。
もし戦いになった場合、どれだけの犠牲を強いられるか分かりませんし、まだこの時点では徳川が全国支配を完全に確立させていた訳ではありませんので、戦火が拡大する事を恐れたのかもしれません。
島左近は、首が発見されていないので消息不明ということになったのだと思います。
そのため生存伝説はありますが、今後表舞台に出て来ることはありません。
明智光秀生存伝説と同じようなものです。
日本人は、敗れた英雄が実はどこかで生きている、というのが大好きですから。
そういえば、真田信繁や豊臣秀頼にも生存伝説がありますね。
家康と三成の最後の会話は良かったですね。
ただ、「まやかしの夢」と断じて自身の理想を自身で否定してしまった「どうする~」の三成は、結局そこまでの人間だっただけのこと。
瀬名の夢・理想はお花畑だと思いますし、「戦国EU構想」は頂けないというか黒歴史だと思いますが、その理想を受け継いで理想を現実にする為に苦闘する道を選んだ今作の家康は三成(あくまでも今作の三成)より人としての格は上だと思いました。
まぁ、今ドラマは家康が主役ですので、家康が持ち上げられるのは当然でしょう。
元就時代や、元就死後も吉川元春と小早川隆景が甥の輝元をしっかり支えていた時代は揺ぎ無かったと思いますが、元春・隆景が没して世代交代してからは揺らいでいたのかもしれませんね。
元春には実子が出来ましたが隆景には子が出来ず秀秋を養子にしています。
血族ではない秀秋に輝元を支える意思があったとはあまり思えません。
吉川の方も、後継者になった吉川広家は元春の次男ですが(後継は長男の元長でしたが病気で早世したので広家が繰り上がり)、秀吉が毛利を引っ掻き回した事もあって輝元やその後継秀元に対しては隔意があった可能性もありかも? という気がしています。
加藤清正は、関ケ原の合戦時は九州で黒田如水と協力。小西行長や立花宗茂の城を開城・調略し、九州の西軍に付いた勢力を次々打ち破ってました。
真田親子は、秀忠軍の足止めに成功した後は上田城で籠城を続けたのではないか、と思います。
真田昌幸は合戦が短時間で決着が付くとは思っていなかったらしいので、西軍からの何らかの連絡(指示なのか依頼なのかわかりませんが)を待っていた可能性はあるかも。
あまりにも速く西軍が敗北したので、自分の読み違いに臍をかんでいたかもしれません。
戦後の真田父子は、真田信幸の必死の助命嘆願と本多忠勝(娘婿の信幸をかなり気に入っていたとか)や井伊直正(父と弟を助命してやれば信幸が一層励んで仕えるだろうと思ったらしい)の口添えで命は助けられ高野山に流罪。
その結果、大坂夏の陣で家康は棺桶に片足を突っ込みかける訳なんですが、草葉の陰で両将はどう思ったでしょうね?
その井伊直正は、撤退する島津軍を阻もうとして負傷。それが下で2年後には亡くなります。
ドラマでは腕を負傷していましたが、実際は大腿部を撃たれたらしいです。
腕の負傷に変更したのは、武田旧兵を家康から預けられ手懐ける為に連日傷だらけになっていた時、家康に包帯を巻いてもらったシーンの再現の為かな? と思ったり…
死因は傷口からの壊疽という説もありますが、亡くなるまでに時間経過がある程度あるので、貫通しなかった銃弾を摘出しなかった結果の鉛中毒では? と個人的に推測していますが明確ではありません。
負傷後も様々な交渉ごとの為に傷をおして動き回っていたそうですし、予後が悪かったのは確かでしょうね。
家康の陣から秀秋の陣までは距離がありましたし、其処ら中で戦っている為銃声が聞こえても問鉄砲と分かる筈がない、ということですね。
小早川の裏切り(西軍から見た場合は裏切りですが、秀秋としては旗幟を明らかにしていなかっただけで最初から家康に付くつもりでいたかもしれません。周り中が西軍なのに、「あ、自分、東軍に付きますんで悪しからず」などとは言えませんからね、保身の為にも)を想定していた大谷軍は寡兵ながらも十分に小早川軍に対応できていたと言います。
想定外だったのは、小早川に続いて脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠が裏切った為軍を支えきれなくなり壊滅。大谷刑部は自身の陣で自刃。
後ヵら裏切った三人のうち脇坂安治は家康に対して内応する、と事前に申し出ていたので所領安堵。朽木・赤座・小川は日和見の末の土壇場での裏切りだった為返り忠とは認められず、減封されたり改易されたりしています。
今回ではなく前回の解説で書いておくべきだったかもしれない事を少々追加します。
前回秀忠が真田によって足止めされ合戦に間に合わなさそうであることを知った三成が、家康が蜘蛛の巣にかかった、と笑っていましたが、実際は決して笑っていられる状況ではありませんでした。
確かに秀忠が率いていた3万8千の軍は合戦に間に合いませんでしたが、西軍の方も京極高次が守る大津城、細川幽斎が守る田辺城に各1万5千を送っており、いずれも関ケ原の本戦には間に合いませんでした。特に大津城攻めに参加した、東の本多(忠勝)西の立花(宗茂)と秀吉から評されたという逸話がある名将立花宗茂が合戦に間に合わなかったのは、三成にとって痛手だったでしょう。
宗茂は西軍敗北後に改易されましたが、後に旧領を回復しています。これは西軍に付いた武将の中で唯一です。
宗茂は家康の様に長生きした武将で、後の島原の乱に戦国の唯一の経験者として参加します。智恵伊豆こと松平信綱の補佐として、戦国で磨いた観察眼で活躍したとか。流石に70過ぎの老齢の筈なので、最前線の槍働きで活躍したかどうかは不明。
三方ヶ原の合戦で家康が信玄から仕掛けられた策ですね。
この従来説に対して近年言われるようになってきたのが、小早川秀秋」の松尾山着陣を原因とする親切です。
小早川は先代の隆景が五大老の一人だった様に有力大名です。秀秋自身は北政所の実の甥で秀吉の養子から小早川の養子になった人物、というのは前回解説した通りです。
本来なら西軍の強い味方となるところですが、秀吉の後継候補だったものが秀頼が生まれた途端に掌返しで小早川に養子に出され、小早川の領地筑前・筑後33万石を秀吉に取り上げられ越前12万石に減封され、その後家康の配慮で筑前・筑後に戻れた、という経緯から、三成は秀秋が家康と通じているのではないか、と警戒していました。
秀秋が越前に転封されている間、筑前・筑後を代官として治めていたのが三成だったので、秀秋は自分を恨んでいるに違いない、と三成は疑っていたらしいです。
敵味方の去就が明らかでない秀秋に松尾山に陣取られてしまうと、大垣城は最悪両方から攻められる可能性が出て来るため、それを避けて関ケ原に陣を構え、小早川を牽制する為に大谷刑部が本来の布陣地から東に出張り、三成の笹尾山と秀秋の松尾山の中間あたりに小早川軍を見据えた陣を敷いた、というのはNMKの「歴史探偵」でやっていた通りです。
レーザー測定で地形を解析し陣地跡などを推定してましたので、新説にはそれなりの説得力があるように感じられます。
小早川秀秋ですが、従来は気弱で優柔不断、家康に味方すると書状を送っていながら土壇場で愚図愚図迷っていたので、家康の陣地から問鉄砲を撃ち込まれてようやく重い腰を上げて大谷刑部の陣地に襲い掛かった、とされる事が殆どでした。
とうとう関ケ原です。
物語の起承転結で言えば転の部分のトリと言っても良い合戦…と言えるでしょうか。
ただ、数々の軍記物や過去のドラマにおいて「天下分け目の大戦」とされてきた合戦ではありますが、長い間歴史研究の対象外とされてきていて、江戸時代以降に成立した軍記を元に描かれる事が大半でした。
つまり、今まで数々描かれてきた関ケ原の合戦は、歴史資料に基づいて正しく描写されたものとは言い難い,と言うことです。
最近はこの時代の研究が進み始め、毎年のように新たな資料が発見されたりしていますので、今後は関ケ原の合戦の描き方も大きく変わっていくかもしれません。
さて、今までも今ドラマでも「天下分け目の大戦」とされてきた合戦ではありますが、実際のところは豊臣家中の内輪もめ、勢力争いにすぎないんですよね、実情としては。
東西両軍とも、豊臣の為、秀頼公の為、という大義名分を持って戦っております。
間違っても、豊臣VS徳川という構図ではありません。
というか、豊臣の行く末は西軍が勝とうが負けようが変わらなかったと思います。
西軍が負けた場合は歴史が示した通りの結末となり、西軍が勝ち万一徳川が滅びたとしても別の大大名(毛利輝元が最有力)が台頭して豊臣の影響力は低下を免れないでしょう。その結果、戦国の世に逆戻り外国勢力に付け入られる大きな隙を作った可能性も否めません。
統治体制が確立されていない状況で幼い後継者を残して秀吉が死んだ時点で、豊臣はオワコンだった、と個人的には考えています。
合戦時間も、昔は半日で決着が付いたと言われていたと思いますが、いつしか朝8時くらいから始まり昼頃に決着が付いたと言われるようになり、最近では10時頃に始まり昼頃に終わった、という説さえ出てきて短縮される一方です。
「小牧長久手の戦い」の方がよほど大戦だったかもしれません。
まさか、と思える説として、そもそも家康は関ケ原に出陣していない、というものまでありますし、今後の研究次第では関ケ原の合戦は大幅に短縮、最悪はスルーという可能性さえありますので。
政治的な意味は大きいと思うので、短縮はあってもスルーはない、と思いたいところではありまますが。