Nicotto Town



仕事で忘れられない出来事

もう10年前ですけど、レコード屋でバイトしていました。店主は40代くらいの遠い親戚のEさんで、父親が口をきいてくれたバイトでした。その店主はコミュ障の私の軽く6倍はコミュ障だったので、髪はいつもべとっとしていて、20以上もしたの私にもほとんど目を合わせずにとても小さな声で話して、ほとんど聞き取れない感じの人で、自分よりもコミュ障の人間を見ると途端にリラックスと軽い軽蔑を同時に感じるようなクズの私でも安心して店に立つことができました。
 
休憩を終えてレジに立つと、うすいオリーブグリーンのつなぎを着たクマのような背中が、Bの棚の前でかがんでいました。
「ビートルズありませんか」
私は音楽はそんな詳しくないけど、さすがにビートルズは知っていたし、なんならレコード屋に来る人の何割かはビートルズ目当てだったりするので、すぐ答えました。
「さっき見てた棚の下の方にありますよ」
少し考えた後、男は「あぁ」と腑に落ちたように「あのビートルズじゃなくて。2人組の方の」。一瞬何を言っているんだろうと思いましたが、「あ、レオン…?レノン?リーダーの人のソロなら名前の方の棚か、ビートルズの棚に一緒に」と言いかけて、「いやいや、だからそのビートルズの奴じゃなくて」と穏やかに、でも確信をもって遮りました。…つまり、「あれ、違ったんじゃないかな」とかではなく、「ポテトチップスの塩味じゃなくてうす塩味お願い」くらいの確信をもって。
 まあ、こんなに確信をもっていうくらいだから、そういう「イギリスのロックバンドじゃないビートルズ」というものがこの世にあるんでしょう、知らんけど。
 奥にいるEさん(カレーヌードルをすすり中)に声をかけ、顛末を説明すると、口をもぐもぐさせながら(カレーの臭いをまといながら)店先に出て、男の前につくなり、「ずーとるびとかじゃなくてですか?」と頭を掻きながらいいました。(小声なのに、なんというかEさんのしゃべり方はいつも主語がなく唐突です)「うん、ビートルズです。二人組の方の」
 Eさんは、レコードについてはびっくりするほど博識で、そのEさんが知らないのなら、やっぱりこの作業着の人の勘違いだろう、と思ったら、Eさんは突然「あぁ」と思い出したように言い、突然鼻歌を歌いだしました。「ヒャーディッダ、ディノ、バウチュ…」「そうそう!」本当に、本当にうれしそうに作業着の人が大きくうなずき「どこ行ってもないからさ」と。「うちでももう売れちゃったと思うんすよね。ちょっと置く探してきますけど」とまたぼりぼりと頭をかき、また奥に引っ込んでいきました。奥からEさんの鼻歌が遠く聞こえてきます(壁が薄いんです)
 「ヒナィディシャバッチュフロンミー、ナイットゥープリアバウチュシャウミー…」Eさん、歌うまいじゃん、と思うほどそれは心地よい時間でした。
 私も、その作業着さんも、なんとなくその旋律を聞きながら気持ち良くぼんやりしていました。ちょうどよく店の中もあったかいし。カレーの臭いもまあいい匂いだし。

 それだけです。結局、レコードは見つかることなく、作業着の人も二度とやってこなかったし。
 その後Eさんに「ねえ、その二人組のビートルズってどういうバンドなの?」と聞いても「うん、そういう人がいてね」というだけで、ネットで調べても出てこないし。
私もそのバイトもやめてしまったし。その曲、今でも口ずさめます。なんというか不思議な曲でした。アラビアっぽい感じの不思議な旋律。歌詞はきっと正確じゃないけど、それでも口ずさめます、「ピーキャリットディアヘ―ェビン、ヒャナウ、ヘルスロー…」すごく耳に残って気が付くと口ずさんでいるくらい。

 それだけのオチもない話ですけど。
 でもなんとなく、ぼんやり幸せな瞬間って何だったかなぁと思うときに、あのときを思い浮かべるんですというそれだけです。あのカレーの臭いで聞いたアラビアっぽい曲、幸せだったなぁ。
 きっと、老後にぼんやり縁側とかに座っていたら、思い出すのってこういうことなんでしょうね。

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