Nicotto Town



なんちゃって その①

明けましておめでとうございます。
日記更新が滞り気味の昨年でしたが、本年も宜しくお願い致します。


さて


私がクリスチャンだとご存じのとある方から、私にとって日本のクリスマスとはどう映るのか、という質問を頂いたことがあります。

クリスマスは終わり年も明けてしまいましたが、せっかくなのでそんな話をしてみたいと思います。

詰まらない話なので、読み飛ばしていただいても結構です。



さて、私のクリスチャンとしての在り様には、大きなポイントが二つあります。

ひとつは、私は幼児洗礼によるクリスチャンではない、ということです。幼児洗礼とは、要は親がクリスチャンで、幼児期の内に当人の意思とは関係なく洗礼を受けてしまうことですが、欧米ではこの入信の仕方が一番ポピュラーだろうと思います。
そうではない、という事は、物心ついてから自分の意思でクリスチャンであろうと考えた、ということになります。

もう一つは、実は私は洗礼を受けていない、ということです。
つまり、形式的に言えば私はクリスチャンではありません。気分だけクリスチャンの、なんちゃってクリスチャンです。十字架のネックレスとかしているヘビメタの人と同じかもw


私にとってのキリスト教とは、宗教ではないのかもしれません。


ざっくりと言えば、私の信じているものは、唯一神によってこの世界が司られているというこの世界の在り様なのだろうと思います。そういう意味では、キリストの復活という救済に向けたキリスト教の最も重要な部分に関しての関心は薄いとも言えます。そもそも、神様にすくわれて天国に行きたいと言った、自身の救済というある意味でこの世のあらゆる宗教の肝の部分について、その欲望を私はほとんど持ち合わせていません。

ここまでを読んで、キリスト教についての知見を持っている方は、もしかしたらあることに気が付くかもしれません。


この人にとってのキリスト教とは、もしかしたら旧約聖書ありきなのではないのか?


そのとおりです。


現代においてキリスト教とは事実上は新約聖書をベースにしたものであり、旧約聖書を通読したことがないという人も結構いるのではないかという気がしています。
しかし私にとってのキリスト教とは旧約が主体であって、極論すれば新約はオマケです。
敬虔なクリスチャンの方からしたら、そんな馬鹿なというなのかもしれません。というか、旧約ありきで新約はオマケって、お前それってユダヤ教徒ってこと?とも言われかねません。ユダヤ教は新約聖書を認めていません。ユダヤの民の歴史そのものである旧約が全てです。
大雑把に言えば、旧約とは創世記+その後の神を中心としたユダヤの民の物語であり、新約とはイエス・キリストとその弟子たちによる、神の存在を背景とした人間の生き方と、救済についての物語です。

しかし、私はユダヤの民ではありません。
旧約の内容は、この世が作られたプロセスである創世記を除くと、誰が誰の子でというユダヤの民の出自と歴史と、どんな貢物をしろといった戒律の説明が中心です。延々と誰が誰の子で、誰の孫で、何歳まで生きて、どこだかの部族が神の言葉に従って戦争をしたり、神様に嫌われて殺されたり、みたいな話が延々と続きます。ハッキリ言って、クソつまらないです(私は嫌いじゃありませんがw)。
ただし、旧約聖書の中盤、ヨブ記という部分から後ろは、非常に文学的な趣の言葉で、キリスト教徒としての生き方を語るような内容が多くを占めています。

ちなみに、意外に思われるかもしれませんが、旧約聖書には後のイエス・キリストの誕生を予言する部分は何か所かありますが、イエス・キリストそのものは一切登場しません。言ってしまえば、旧約聖書を元にして、「あそこで誕生が予言されていたのは私です」という体でキリストが登場するのが新約聖書です。つまり、旧約聖書の時代にはキリスト教などと言うものは存在していません。だから、一般的に言ってキリスト教とは新約聖書以降のものです。
じゃあ新約聖書はキリストによるものなのかというと、まったくそうではなく、弟子たちがキリストについて書いた、あるいはキリストの言葉や行いを記録した色々な文章の寄せ集めです。もっと言ってしまえば、キリスト教とはその弟子たちが後に興したものであり、キリスト自身がキリスト教という宗教を始めたわけではありません。

イエス・キリストとは何か。

クリスチャンとして言うのであれば、この世に降臨した唯一の神の子であり、人間の罪を一身に背負い死に、そして復活し、後にすべての人間を復活させ、救済し、あるは断罪する唯一絶対の存在です。

歴史的に言うのであれば、こういうことを言うと敬虔なクリスチャンから殺されそうですが、旧約聖書の世界を元に、キリストの生きた時代の世界の在り方を導こうとした革命家のようなものだったとも言えると思います。


本題に戻りましょう。


私は別に新約聖書を否定するつもりは毛頭ありません。
ただ、私にとっての新約とは、あるいはイエス・キリストとは、旧約の世界の在り方を説いた、ある種の解説書です。というか、そもそもキリストは全く新しい何かを説いたわけではなく、先述の通り唯一絶対の神の子として、人間を導き、人間の罪を一身に背負った人です。ですから彼の言葉は、ある意味で旧約を背景とした、神の言葉の通訳のようなものなのです。つまり「ある種の解説書」ということです。
しかしこれも先述のとおり、旧約の大半は、神と共に歩んだユダヤの民の歴史を淡々と記したものであり、「教え」の部分はごく僅かです。

そんな中で、私にとっての旧約とは何なのか。

それは、実は旧約の冒頭、「創世記」なのです。
神が如何にこの世を作られ、そして人間に何を期待し、何を負わせ、如何にして扱ったのか。その原初の話が創世記です。私にとってのキリスト教とは、煎じ詰めればここに行きつきます。


高校生も後半のころ。
私は毎日のように眠れない夜を過ごしていました。

世界とは何か。
存在するとはどういうことなのか。
生きているとはどういうことなのか。
そしてその上で、現実のこの世界の在り様をどう理解して行けばよいのか。

書き溜めた膨大な日記が、いまも実家の自室に眠っています。
いま思えば稚拙なものです。しかし当時は真剣でした。我ながら、よくもまあ高校生から20歳くらいまでの若造が、これだけのことを考えて、これだけの日記を書き溜めたものだと、その熱量に驚かされます。

そして大学生になり哲学やらを少しばかりカジり、哲学書を1ページ読み進めるのに半年かかったりしながら、あれやこれやと相変わらず悩んでいたものの、ある時にふと思ってしまったのです。

「わかんねーやw」

この「分からない」とは、単純に私の知性の限界を自ら悟ったということでもあるのですが、ここから先もずっと考え続けても、おそらく答えには行きつかないのではないかという予見を持ってしまった、ということでもありました。

おや。。。
間もなく文字数制限3000文字に達してします。
続きは次の日記に認めることに致します。

ではでは。



追伸
余談ですが、旧約聖書の神様はかなり酷いもので、なにか気に入らないとすぐにキレて、すぐに人間を殺しちゃいます。なんならその感情的にキレることを人間にたしなめられて、じゃあいいよ、殺さないよ、チッ… みたいな話まで出てきます。冷静に考えたら、ほぼ暴君ですw




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