Nicotto Town


寺本まこと


自由意思と一定の基準。

 

自由意思と一定の基準。
自由意思があるけどお一人様が多くなり世帯は一人が当たり前となる。
アダムとイヴの話でイヴは蛇にそそのかされアダムとイヴは禁断の果実を食べた。そのことによりアダムとイヴは自由意思を得た。神様の定めたルールから逸脱することも可能になった。自由意思を使うとネガティブな結果を出すことが多くなる。ゆえに江戸時代では庶民の自由意思が激しく制限された。女性には人権もなく江戸時代で出世できるのは家柄が良いものに限られた。自由意志があるということは堕落が可能であるという前提の中で生活や社会が営われることを意味している。アダムとイヴは禁断の果実を食べて堕落を知った。堕落とはそういうものなのだ。ましてや日本は島国で徳川という強者の一族が何百年も日本を統治したという歴史がある。これが大陸であれば強者の一族が何百年も支配するということにはならない。島国では権力を有する強者こそが正議で弱者は淘汰され殺されていくのである。イエスかノーかという二択しかない。島国で生きる人間が恐れることは「ノー」と言われることである。「ノー」と言われたら弱者として認定される。弱者として認定されたら異性と関わる機会もなくなる。家庭を持てなくなる。島国では他者から否定されるということは死刑判決と同じ意味を持つ。島国では同一の意見や考えがウイルスのように感染していく。だから他者から否定されたら島国なので逃げ場もないから自殺するしかない。島国の村八分は想像を絶する。つまり島国に生まれ島国に生きていくという時点で弱者は淘汰され死ぬしかないということを受け入れるしかない。だから誰もが潜在的にそのことを受け入れているから他人と関わらずに済む社会システムが支持される。
法治国家なので他者に危害を加えれば逮捕される国。それが日本です。
淘汰とは人々が共通認識として常識として定めている一定の基準を下回り人々が共通認識として常識として定めている一定の基準をクリアー出来ないことをいう。
つまり今日本では自由が叫ばれる反面、様々なことから淘汰が進んでいるということである。徳川幕府は人々が共通認識として常識として定めている一定の基準をクリアーするように江戸時代の人々に強制してきた。だが日本国憲法が公布され個人の自由意志と人権が大事であるというルールが出来た。そのことによりインターネットが出来て日本のあるいは世界の人々の心が見れるようになった。そうすると何が悪で何が正義かということが曖昧になってきた。何故徳川幕府下の日本が人口面で滅びなかったか。それは自由意志と人権を抑圧させて淘汰は絶対悪であると定めたからである。インターネットが日本に世界に普及した今の時代に人々が共通認識として常識として定めている一定の基準というものは存在しないと言っても良い。極端な話、食べ物を恵んでもらうことしか考えていないアメリカのホームレスの未来は暗いものである。キリスト教というものが人にとっての淘汰を防ぐためにあるのならばキリスト教を信じる人が多数派であるキリスト教国家は目に見えて国力が下降していくということは考えづらいことなのである。だが食べ物を恵んでもらうだけのホームレスには淘汰という概念が存在しない。淘汰という概念が存在しないなら人を殺しても良いと思うし犯罪は悪ではないと思うのである。淘汰という概念がない人が多数派の国家は目に見えて国力が下降していく。共産主義者が多数派の国家はその最たるものである。淘汰という概念がない。だから子供も産まないし経済も発展していかない。ネズミの楽園という実験の結果は淘汰という概念がないネズミ達が創り出した結果である。ネズミの楽園という実験の結果はネズミ達の絶滅に終わるというものであった。
ネズミ達は自由意志がありネズミとしての人権のようなものがあり手厚く保護された。そんな中でネズミ達が共通認識として常識として定めた一定の基準が誕生することはなかった。ネズミ達は好き勝手に行動した。孤独に過ごすネズミも増えた。やがてネズミの数は頭打ちになりネズミ達の数は下降していきやがてネズミ達は絶滅した。これを現代に置き換えると。現代人は自由意思があり人権がある。法の下、豊かになった現代の下、手厚く人生を保護された。そんな中で現代人達が共通認識として常識として定めた一定の基準が誕生することはなかった。現代人達は好き勝手に行動した。孤独に過ごす現代人たちも増えた。やがて現代人達の人口は頭打ちになり現代人達の数は下降していきやがて現代人達は絶滅した。この現代人とは現在で言うなら日本人や韓国人のことだろうと思う。誰もがそんなに対人関係が苦手ではないとか奥手ではないという意見は世帯には一人だけいるということが当たり前になるという未来予測によりくつがえされた。アメリカは分断されてはいない。分断されているのは日本や韓国である。20代で結婚できない人は売れ残りで恥ずべきことだという人々にとっての共通認識として常識として定められた一定の基準が1990年代の日本にはあった。それが日本の人口をある程度保つことになる要因にもなった。だがインターネットが日本や世界の人々に普及されて、例え何歳でも結婚し子どもをつくっても良い→子どもを持つ持たないも個人の自由→同性愛を大事にして同性婚をして人生を生きていくことも許されるべきというようにどんどんと淘汰されることは許されるべきという論調が主流派となった(共通認識として常識として人々が定めた一定の基準をクリアーしなくても良い。淘汰されても良い。なんなら淘汰こそ幻想であるという意見が人々にとっての多数派としての意見になったという意味)。
日本や韓国は淘汰という概念がなくなったのでどんどんと国力が衰退していく。


 




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