自作小説倶楽部4月投稿
- カテゴリ:自作小説
- 2024/04/30 22:06:19
「黒猫と少女」
は、いけない。いけない。
あたしは、窓ガラスに息を吹きかけると雑巾で拭いてゆく。窓の外には重い灰色の空が立ち塞がっていて恐ろしいように感じた。目をつむりそうになって首を振り、作業を続ける。死んだばあちゃんに「お前はぼんやりだ」と随分注意された。ばあちゃんが死んで働きに出て何年だろう。ぼんやりは変わらないどころか最近ますますひどくなっているような気がする。
何枚あるかわからない窓を拭いて行く。これが終わったら洗濯、その後に庭掃除をする時間はあるだろうか。広い広い庭だけど庭掃除は一番好きだ。たまにきれいな花も咲いている。庭師のお爺さんがいた頃はおしゃべりしながら一緒に作業した。仕事を辞めて息子さん夫婦と住むと言っていたけど元気だろうか。
にゃー、と鳴き声がしてあたしのふくらはぎを柔らかな毛皮が撫でた。
「ネロ、待っていてね。ひと段落したら何かあげるから」
手元を見たまま言う。ネロは真っ黒で尾っぽだけふさふさしていて、きれいな緑色の眼をした猫だ。お嬢様から預かった大切な猫。言ってから何も食べ物を持っていないことに気付く。あたしのご飯を残しておけばよかった。今日のお昼は何だったっけ。思い出そうとして止める。無いものは考えても仕方ない。こんな時におケイさんが居てくれたら。
おケイさんは料理人の旦那と一緒に台所を仕切っていた。お嬢さんが遠くにお嫁に行った後、ネロのご飯を分けてくれた。お嬢さんがいた頃はあたしにお菓子をくれたこともある。思い出す。優しいおケイさんが怒った顔であたしに言った。
こんな家、早く出て行ったほうがいい。お嬢さんは帰って来ないよ。ほかの勤め先を探すんだ。
でも、でも。あたし一人なら何とかなる。でもネロは?
お嬢さんに次いでお屋敷で親切にしてくれた人たちがいなくなってあたしとネロは途方に暮れた。どうしてよいかわからないまま、あたしは仕事を続けた。
ばあちゃんが言っていたことを思い出す。一生懸命働けばきっといいことがある。皆あんたに優しくしてくれる。
いいことは確かにあった。
この屋敷に来て、お嬢さんに会った。天使ってお嬢さんのような人を言うのだろう。この世でこんなに綺麗で優しい人がいるのだと知った。他の使用人も親切だった。それらが失われたのはきっと、あたしが怠けたせいだ。油断したんだ。
取り戻すためにはもっともっと一生懸命働くんだ。ネロだって側にいてくれる。お嬢さんがあたしに「ネロをお願い」と頼んでくれたんだ。
灰色の空の遠くで何かが光ったような気がする。カミナリだろうか。雨が降るのもカミナリも嫌だ。雨は痛くて冷たい。
ネロを抱えてあたしは蹲った。
は、と気が付く。駄目。駄目。仕事に集中。余計なことを考えてはいけない。
掃除より辛いのは奥様の世話だ。お嬢さんとは血のつながらない後妻さんで自分の召使を連れて屋敷にやって来た。お嬢さんはお嫁入して、奥様を嫌った使用人がたくさん辞めた。人手が足りなくて時々手伝いをやらされて、奥様はあたしを見るたびにひどいことを言う。一番ひどい言葉は。
どろぼう。
頭に浮かんだ言葉の意味を考えようとして胸が苦しくなる。口の中に鉄の味がした。
違う。違う違う違う違う違う違う違う。考えるな、考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな。
「ねえ。君」
声を掛けられ、は、と振り向くと見たことのない若い男の人が立っていた。細身の身体に黒いシャツに黒いズボン、それよりも黒い髪と瞳。まるで黒猫だ。目が緑ならネロが人間になったかのような風貌だった。
「猫をちゃんと見てあげて、寂しがっているよ」
「あたしなんて、ネロはお嬢さんがいなくて悲しいんです」
「お嬢様がいなくなってずっと面倒を見ていたのは君だろう。ネロはもう君の猫だよ」
言われてやっと足元を見る。そこに黒猫の姿は無かった。しかし、確かにいた。ネロの気配がする。あたしの足にまとわりつく気配がうれしいのか悲しいのかわからなくなって涙がこみ上げてきた。
「すべて私が悪いんです」
老婦人は崩れかけた屋敷を見上げてつぶやくように言った。黄昏が迫り、幽霊屋敷と噂された屋敷の暗さが際立つ。
「義母が私を家から追い出すために仕組んだ縁談とはいえ、継母が我が物顔に振る舞う実家を離れることでやっと私の精神は安定を取り戻しました。実家に帰ることに比べれば夫との生活のほうが「まし」でした。それなのに私は私を信頼していた使用人の少女に飼い猫の世話を頼んだ。彼女は私の約束にこだわるあまり、実家の零落と義母の虐待から逃れることが出来なかったのです。彼女が義母に泥棒の疑いを掛けられて雨の中、追い出され、肺炎で死んだことを知ったのはあの娘が葬られて1年以上たってからでした。最期を看取った人によれば、うわごとで一生懸命働くから勘弁して、と言っていたそうです」
お祓いが終わり、老婦人は息子に促されて帰って行った。
やがて明るい月に照らされた庭で黒猫と少女が楽し気にじゃれあって遊んでいた。
こういう終わりもありだと思いました。