犬の体温と風
- カテゴリ:日記
- 2024/06/04 15:50:46
昨晩は、不安定な雨模様。
止むかと思えば、突然の土砂降り。そしてまた小降りにを繰り返す。
雨は、心落ち着くひと時。
空気に交じる雨音と、ひんやりとした水の気配。
雨の日は、車の運転も心地よい。
ワイパーに押し流される雨水。
乱れる光と、流れる景色。
そんな雨も、夜中にはすっかりと上がり、本日は晴れ。
お昼前、行きそびれてすっかりと日が高くなってから、犬の散歩。
公園の中は涼しいのに、コースを外れて町中へ。
暑くて、すぐに舌が出る。
水を飲ませる。
日陰を辿り、黒いアスファルトではなく白いコンクリートの地面を辿りながら、帰宅。
風呂で足をあらって、タオルで拭いて、ついでに顔も拭く。
はい、おしまい。
犬が、なんだかじっとこちらを見ている。
おいでと呼ぶと、体を寄せて来る。
抱き寄せると、犬の体温が心地よい。
ずっと一緒にいられたらいいのにね。
母が死んだのが何年前だったのか、もはや定かではありません。
結局、母の死に涙を流したことは、一度もありませんでした。
父は88歳になり、ひとり実家で過ごしています。
車に乗れば20分の距離。
でも、重い腰を無理やり上げなければ、辿り着くことができません。
父が死んでも、おそらく泣くことはないのだろうと思います。
もしも子供が死んだとしたら、わたしは泣くのだろうか。
泣くことが、できるのか。
自分でも、よく分かりません。
なんであれば、確実にその死に際して涙するのは、犬くんでしょう。
でも、この一年。
叔父を一人、知人を一人、見送りました。
随分と泣いた気がします。
わたしは、今もまだ、家族というものが何なのか、よく分かっていません。
ただ思うことは。
以前も書いたような気がしますが。
自分が死んだら、もう私のことは忘れて欲しいということ。
灰にして、風に流して欲しい。
生きていた痕跡を、残さないで欲しい。
わたしが生きていたこと、それそのものを、なかったことにして欲しい。
何事もなかったように、生き続けて欲しい。
わたしは、それを遠くから、そっと眺めていたい。
心穏やかに。
5月の、からりと澄んだ青空。
強い風に流れる綿雲。
小高い丘の上から、眼下にうねる穂波を、眺める。
風を頬に受けながら、膝を抱えて、ただ眺める。
そのまま、だんだんと軽くなり、薄くなり、遠くなり。
消えてなお、光と音と風に交じる。
そうやって消えてなくなり、そのまま穏やかに、心を寄せるものを眺めていたい。
わたしのことなど、欠片も記憶になく生きていく、心寄せられる人たちを眺めていたい。
そう。
わたしがいるから。
私が生きているから。
生きている私と関わる皆を見るから、穏やかになれない。
だから、私のいない世界で生きていく、美しいものだけを、見ていたい。
色々と疲れましたかね。
気晴らしをするとしても、抱えているモノをなくす事は出来ないから、心も身体も脳内も疲労は溜まるだけ、と言う時が続いていそうですね。
とりあえずアルコールを摂取せず、しっかり眠る事をおすすめします。
ただ、こちらが愛を注ぐのみ。
ある意味で、とても都合の良い存在。
だからこそ、ペットは特別なのかもしれません。
だからこそ、掛け値なしの、特別な存在なのかもしれません。
そんなことは、でも、どうでもいい。
愛おしくて、仕方がない。
そこに、嘘偽りはないと思う。
ままならない人生です。
ここでのお友達。
生身のあなた達を、わたしは知らない。
だからこそ、心許せるのかもしれません。
それが、果たして心寄せることの出来る友と言えるのか、わかりません。
たぶん、本当はそうではないのかもしれません。
それでも、どこかで、あなた達に救われ、生きている。
本当に傍にいれば、諍いも絶えないのかもしれない。
そうね。
でも。
それでも、あなたのような人が、わたしの傍にいてくれる一人であったらよかったのに。
そう思います。
人生は、ままならないですね。
生まれて初めて「愛しい」という感情を実感しました。
無償の愛を注げる自分に驚きました。
夫は生まれて初めて「さびしい」という感覚を知ったと
紋次郎がいない小屋(その時は私が実家へ連れていってた)をみて思ったそうです。
紋次郎が亡くなって、とめどもなく涙が出ました。
今でも思い出して泣いてしまいます。
サクが亡くなったら、やはり私は泣き暮らすでしょう。
ペットって特別ね。