Nicotto Town



そだちについてのどかに語る

家から歩いて15分「南の郵便局」というカフェに私はよく入り浸っている。理由は 1私は超絶暇人である 2オーナーが遠い親戚で同い年である 3なぜか夜の3時まで空いている 4メニューにラム酒入りのコーヒーとホットウィスキーがあり、私の好きなベルギービールもある 5デタラメに本棚に並べられた本たちが悉く私好みである ...などの理由からだ。

 オーナーであるkは私の知っている人間の中で一番背が高く一番痩せていて一番ぼーっとしていた。親戚ではあるが、正直遠すぎる親戚で、どこがどう繋がって親戚だったかすらよくわからないレベルだけどまあ何かのつながりで繋がった。
 kはぼんやりしてどんな話もふんふんと聞きつつその実何も覚えていないところが美徳となり、常連客は半を押したようにその場所に募った。居抜きで始めた店で、軽食すら出さないその店は客単価が悪くともランニングコストの低い身軽さ故に特段きゅうきゅうとなることもなく呑気に毎日営業していた。店主の人柄そのものだ。
 ついでに店主の人柄そのままだなと思うのが、この店では不定期によくわからないイベントが催される。唐突にどこから集めたかわからない雑貨を1週間販売するとか知り合いのアマチュア監督の映画上映会とか客の書いたエッセイを配架するとか。
 そんな流れで私はkから「そだち に関して作文を書いて。そういうのを集めて文集にしてフリーペーパーにするから」というよくわからないことを言われた。それがこの店やkにとってどういうプラスになるのかはよくわからなかったが、この中では何か必然性があるのだろう。
そだち。私は私の子供時代を思い出した。私の子供時代は本に始まり本に終わる。私の両親は子ども日本を読ませることは重要な教育だと思っており、テレビゲームやらは害悪だと思っている人だったので、必然私の子供時代は本の山の中で文字を追うのが常だった。個人的にはそんな方針こそ読書と対極ではないかと思うのだけれども。本を読むというのはすなわち人間の良識やら善悪なんてものはいかに文化や時代の中で移ろうかという追体験であって、ベン・ハーの時代にはある生涯の本を読むのは不道徳で堕落であるという話であったはずだ。そんな私だけれども、本を好きかというとよくわからない。毎朝茶を飲むことが習慣となっている茶農家の娘に「日本茶は好きか」と聞いたら、空気は好きかと聞かれたかのように当惑するだろう。私は空気についてよく知らない。
ぼんやり炭酸で割られたカナディアンバッドをすすっていたら、kと話し込む女性客の声が耳に入った。どうやらこの客もこのよく分からない宿題を課された一人であるようだ
要約するに、彼女は二人姉妹の次女であり、相当虐げられて育ったようだ。姉にものを譲るには当然、問題は譲るときの表情であるという「今、いじけたような顔をしたでしょ。嫌がらせ?って言われるの。私が心から譲るのを望むような顔をどれだけしても。それで殴られるの」なんだか暴君の国に生まれた奴隷のような話だ。「でも、問題はそういうことが私の人生に同影響したかということで、難しいよね。私はおかげで世の中には自分が当然取っていいものなんて一つもないと鼻から思い込んだと思うんだ。それによって私は人から奪って当然という人に嗅ぎ分けられてひどい目にあったあし、でも浪費したりすることはないからそういう地獄にはいかずにすんでるの」

 本の中で生きたことの功罪があるとすると、良い点はすらないが悪い点は一つ思いつく。それはいくつかのパターンを現実のように思ってしまうことだ。罪人は悔い、貧乏な善人の墓にはきれいな花が咲いた。愛は報われた。

 そういうそだちは無意識の信仰のように、気づいたときにはそのストーリーにそってすべてが進行している。
 問答。

 そだちは呪い、そだちは文法、そだちはからだ。

 そう思うほど、私は魂の方を信じようとなるし、魂の自由を想うときに私は体を捨てるのだ




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