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ジュンチャン


ジュンチャンと世界を巡る 第108回は南スーダン


北アフリカの国々が終了したので、ここからは東アフリカの国々の紹介となります。

東アフリカには、ブルンジ、 コモロ連合、 ジブチ、 エリトリア、 エチオピア、 ケニア、マダガスカル、 マラウイ、 モーリシャス、 モザンビーク、 ルワンダ、 セーシェル、 ソマリア、 南スーダン、 タンザニア、ウガンダ、 ザンビア、 ジンバブエの国々があります。

 今回は、南スーダンを紹介します。

 南スーダン は東アフリカに位置する国家で、首都はジュバ、北はスーダン、東にエチオピア、南東をケニアとウガンダ、南西がコンゴ民主共和国、西は中央アフリカと国境を接する内陸国です。

201178日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にありました。

 それでは南スーダンの始まりです。

 

 スーダンは現代アフリカの縮図であり、とりわけ南スーダンはその典型と言える。
 それは、誰もが連想する貧困、飢餓、感染症による病死、少数民族の間で今も続く原始的な牧畜や農耕生活の風習、アニミズムと呼ばれる原始宗教による日々の暮らしぶりという意味であるが。
 貧しくはあるが、それぞれの部族の風習に基づいて生活してきたこのアフリカの典型的な地域に、二つの巨大な波が押し寄せた。

 最初の波はイスラム化という波。
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世紀初頭に起こったイスラム教は、アフリカを徐々にイスラム社会化して行き、15世紀には、ほぼアフリカの各地に行き渡った。
 イスラム社会になると断食もある。このような三日月の頃から始め、1ケ月もの間、太陽が沈むまで飲食出来ない。

 現在アフリカの総人口の約40%はムスリム(イスラム教徒)である。エジプト、リビア、アルジェリア、モロッコなど北アフリカは90%以上、スーダンは75%がムスリムである。


 次の波はヨーローッパ近代文明の到来ということになるが、実際文明という名でこの地域にもたらされたものは、奴隷狩りだった。
 16世紀から18世紀の300年間の間にアフリカ大陸から狩り集められた奴隷の数は1500万人に及ぶ。
 奴隷制度は、19世紀以降廃止されて行くが、奥地の南スーダンでは野放し状態で、その後もアラブ系奴隷商人達が入り込み、まるで農作物や畜産物の収穫でもするような感覚で、黒人部族のディンカ族などをハルツームに連れて行き、家畜の取引と同じように売買していた。
 その後1898年のオムドゥルマンの戦いを経てイギリスの植民地となった後も、北部アラブ系の南部黒人系に対する支配や収奪は続いた。

1956年にイギリスから独立すると南部住民のアラブ系支配への不満が爆発し、スーダンの南北戦争が始まるのである。

 
 僕はアフリカの旅の中で、特有の生活様式を色濃く残している、出会っておきたい少数民族を10民族くらいノミネートした。
 その一つであるヌビア民族には、エジプトのアスワンで出会った。
 ここでは、高名な二人の写真家の写真により、少数民族を数組紹介したい。


 まず、最悪の疫病地帯サッドで生活するディンカ族を野町和嘉氏と一緒に紹介する。
 野町氏は高知県出身の高名な写真家で、一貫したテーマは、「過酷な風土のもとでの人びとの強靭な生きざまへの憧憬」であった。

 ディンカ族、スーダン南部から一部エチオピア東部に住む。ヌエル族やマンダレー族と同様、「牛と共に生きる民」として知られている。
 ただ、スーダンの南北戦争の影響で異文化が流入し、本来の伝統的な生活は崩壊しつつある。
 白ナイルに沿った湿地帯サッドの外側には、現地語でトイチと呼ばれる平坦な平原が果てしなく広がっていた。
 彼等牧畜民は、乾季の間はトイチでキャンプ生活する。トイチは乾期には乾燥して埃っぽいが、雨期には広大な湿地へと変わる。そのために家畜と共に、標高の高い彼等の村へ移動する。
 

 彼らの土地は低湿地のため、暑さに加え、黄熱病やマラリア、アメーバ赤痢、などの風土病が常時発生・蔓延している。外から来た人間なら、簡単にあの世行きとなる世界だ。
 死に至る感染症を媒介する大量の蚊から、家畜と彼ら自身を守るために、一日中牛糞を燃やす。夕方になると、灰の傍で横になり、交互に牛糞の灰を体に擦り付ける。こうすることで、蚊が寄り付かなくなるのだという。(もちろん、牛にも塗ってやる。)
 灰を塗りたくった彼らの漆黒の裸体は白く見えた。
 キャンプでは村人全員に役割分担がなされ、家畜の世話は子供、乳絞りは女、男は外的から家畜を守るなどの役目を果たしている。

 牛のためなら命をも惜しまないといわれるほど生活全体が牛に依存しており、戦闘的なヌエル族などは牛を奪うために、ディンカ族を襲撃することもあるという。

 ヌエル族の世界は結婚という制度でもユニークだ。
 結婚して子供が産めないと判断されたヌエルの女はそれからの人生を男として生きていくという変わった風習がある。
 別に性転換手術をするわけではなく男と同じ仕事をしはじめるのだ。
そうして牛三頭を買って女に贈る。これはヌエル族における求婚の儀式である。
 ヌエルの結婚で重要なのは、共に住むことだけではなく子孫を絶やさないということ。
 女と女が結婚をしても子供ができない。

  そこで、夫である女の親族の男が妻である女と子づくりをするのだ。(こうすれば、血が絶えないが、親族の夫の出番は子づくりの時だけ?)

 

 そして、アフリカの魂とも言える風俗を残しているヌバ族の登場である。
 白ナイルより250kmほど西に位置する北海道程の大きさの山岳地帯、ヌバマウンテン、ここに50万足らずのヌバ族が暮らしている。

 いったいいつ頃から彼等がここに住み着いたのか定かではないが、50種類もの違った言語があり、山一つ越えても言葉が通じないことから、もともとナイル河畔に住んでいた様々な部族が、ナイルを遡行してきた奴隷商人達から逃れるため、ここへ落ちのびたのだというのが定説となっている。
 つい数十年前まで素裸で暮らしていたヌバの人達、その膚を飾るのはナイフで付けた瘢痕装飾。

 それは、衣服を知らない野生のアフリカの装飾法。

 写真集「ヌバ」をみたことがあるだろうか。

 レニ・リーフエンシユタールというヒトラーの信奉者だったおばあさんが撮ったもの。
 二組目の少数民族ヌバ族はヒトラー統治下でも活躍したレニーおばあさんに紹介いただこう。
 

 彼女は1962年(60歳)から毎年のように彼らに会いに行き、長いときには7ヶ月も生活を共にした。

 そして完成したヌバ族の隆々たる肉体、美無駄のない肉体の完全な女性美、美しいペインティング、そして独特の風習や記録を収めた写真集「ヌバ」は世界的な高い評価を得た。
 そして98歳になったリーフェンシュタールは再び、ヌバの地を訪れる。だが、時間の流れはあまりに残酷で、そこにはイスラム教へ改宗され、伝統が消え、洋服を着たヌバ族しかいなかった。
 

 次回は青ナイル川を遡って、エチオピアを紹介します。

引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )





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