母のこと。梅干しのお茶。つらつらと。
- カテゴリ:日記
- 2024/09/03 02:36:01
母はわがままで、癇癪もちだった。何かあれば声を張り上げて怒り、誰であろうと怒鳴りつけた。
毎年のように友人たちと旅行に出かけ、父は置いてけぼり。
それでも父は、母の好きにさせていた。忍耐強い人だと思った。
足と膝がおかしい、と言うようになってから、何度か手術をした。
数年は元気だった。けれどやがて、歩けなくなっていった。
ほぼ一日を、ベッドで過ごすようになり。トイレの時には、わたしが支えて移動するようになった。
お風呂は、福祉介護センターで入れてもらえるようになった。週に二度。
食事の時には、背もたれのある椅子に座ってもらい、エプロンを付け。膝の上に小さなモバイル用のテーブルを置く。
柔らかく、飲み込みやすいものを料理して、食べてもらった。
母のお気に入りは、梅干しのお茶だった。毎朝、作って飲ませていた。
カップに梅干を入れて、スプーンでつぶして、種を取り出す。
ほうじ茶を注ぐ。
熱いままだとむせるので、さましながら。急ぐときには冷たい水を少し入れて、温度を下げた。
そうしてできた温かいお茶のカップを手渡すと、ゆっくりゆっくり、満足そうに飲んでいた。
わたしが家にいなかった時は、父に作れと言っていたらしいが、
父は作り方がわからなかったらしい。帰宅すると、むっつりした顔の母が、
「お父さんね、何にもできないのよ」
と、ぶつくさ文句を言っていた。カップの中にごま塩が浮いている惨状を見て、なぜそうしようとしたんだ。とは思った。
そうやって、一年。二年。
抱えても、足がだらんとして。ほとんど動かなくなった。
ものが飲み込めなくなり、やせた。
それでも「梅干しのお茶をちょうだい」と、朝になると言った。
飲むとうれしそうな顔をした。
母にとってあのお茶は、何だったのだろうと思うことがある。
誰かが自分のために作ってくれたと、実感できるものだったのだろうか。
何かを思い出すような、思い返せるようなものだったのだろうか。
やがて誤嚥性肺炎を起こし、手術。施設に入ることになった。
梅干しのお茶は飲めなくなった。
面会に行くと、何か話そうとするのだけれど、声帯がうまく動かないのか、
ひとこと言うにも時間がかかった。
母の友人たちの声を録音して聞かせ、母が好きだった讃美歌を歌うと、
にこにこして、ぱちぱちまばたきをしていた。
いろんな薬を投与されていたらしく、
パジャマや下着、タオルなどの汚れ物を受け取って、家で洗濯するが、
匂いが取れない。
何度洗っても、ものすごく変な匂いがする。
これを身に着けるのは、嫌だろうと、
何とかならないかと調べて、シャンプーを洗剤に混ぜると匂いが取れる、というのを見つけて、
何とか洗い上げた。
クリスマスのころには、乳香の入ったルームミストを差し入れて、
枕元に吹き付けて薫らせてくださいと、施設の人に頼んだ。
母が好きそうな、アニメの名作劇場のDVDを取り寄せた。延々と見るのは良くないので、1日にⅠ枚の約束で見せてください、と頼んだ。
ハイジやペリーヌ、赤毛のアンにトム・ソーヤー。母は楽しんで見ていたそうだ。
音楽や効果音が激しいものや、恐怖を感じるようなものは、避けた。優しい印象のものをできるだけ、選んだ。
薬の影響か、面会に行ってもぼんやりしていることが多くなって、
話しかけても返事がないことが増えた。
でもある時、
「お母さん。お祈りはしてる?」
と尋ねると、
ふっ、と。目に、光が戻った。
口を動かし、かすれた声で、
「いのって、るよ。ずっと。いのって、る、よ」
と、言った。
必死な光が目にあった。何かを伝えようとしていた。
自分のことではない。
残される家族のことを、母は。祈っていたのだと思う。
あなたが幸せであるように。
無事に生きていけるように。
どうか、守られるように。
日々、弱り。薬でもうろうとなりながら。意識の戻った時には、祈ってくれていたのだと思う。
それからほどなくして、母は亡くなった。
遠方に住む妹が、最後の時に間に合い、意識がまだあるうちに声をかけることができたのは、幸いだった。
「梅干しのお茶をちょうだい」
今も毎朝、梅干しのお茶を作る。元気だったころの母の写真を見ながら。父に差し出し、わたしも飲む。
「梅干しのお茶をちょうだい。あれが飲みたいの」
幸せそうに飲んでいたな、と思う。
「ずっと祈っているよ」
わがままで、癇癪もちで、好きなように生きた人ではあったが、
あの言葉をもらえたことは、感謝だと思っている。