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長野県の出直し知事選

兵庫県知事が議会の不信任決議で失職し、改めて知事選が行われている。
同じようなことが22年前に長野県で起きた。田中康夫知事の時である。

2000年10月 知事選で田中氏が初当選
2002年8月 田中知事が議会の不信任決議で失職
   9月 知事選で田中氏が再選
2006年8月 知事選で田中氏が落選

結局、田中氏は組織を適切に運営する資質を欠き、知事には不適任だった。
それが分かったから、長野県民は3回目の選挙できっちり田中氏を落とした。
でも、多くの県民が広くそれを認識するまでには数年を要し、
県の組織がガタガタになって初めて、これはまずいと気が付いた。
まとめて言うと、そういうことだ。

田中知事誕生の最大のきっかけは、長野冬季五輪の招致問題である。
五輪の招致運動に関しては昔から黒いウワサが付きまとっていたが、
招致委員会の会計帳簿が1992年(招致決定の翌年)に焼却処分されていた。
この一件が、筋の通らないことを嫌う長野県民の心を深く傷つけたのである。

それでも長野五輪(1998年)までは、ともかく成功させなければ県の恥だし、
東京マスコミの冷たい視線を見返してやりたい気持ちも県民の腹にはあった。
しかし五輪が終わると、ここで県政を変えなければという意識が県民に広がった。

当初は、後継をめざす副知事と共産党系の女性新人の一騎打ちの模様だった。
水面下で、本当に勝負できる対抗馬を擁立しようという動きがずっと続いていた。
経済界リーダーの八十二銀行頭取や長野商工会議所会頭が擁立工作に動いた。
また一橋大学出身の作家として、先に石原慎太郎氏が東京都知事になっていた。
こうした背景があって、多くの県民が、名前も知らなかった田中氏を支持した。

選挙運動で田中氏と直に接した人たちは、田中氏の身勝手ぶりにすぐに気付いた。
私は告示前の応援団HPの掲示板で、田中氏が疑問に何も答えない様子を見て、
「あれ? この人は期待していた人とは違うんじゃないか?」と思った。
しかし、そんなことは多くの県民は知らないから、田中氏は圧勝した。
とにかく県政の流れを変えようという県民の強い意識がすべてを吹き飛ばした。

3回目の知事選の告示前、飯田市のとある公民館、まったく同じ日の同じ部屋。
午前に田中氏を下ろす側の集会があり、午後に田中氏応援団の集会があった。
私は当時、何の問題もなく両方に入れる立場だったので、両方を見たのだが、
田中氏応援団の集会の時間に部屋に入るなり、「うわっ」と思った。
選挙運動して歩いたら逆に票が減りそうな地域の嫌われ者ばかり、ずらり…
その人たちは最初の選挙の時からいた。でも人の多さと熱気で目立たなかった。
それが6年たったら、残ったのはそういう人たちだけ。これはダメだと思った。

田中県政の「生みの親」と言われた八十二銀行頭取は、
知事に当選した田中氏のことを長野県の「民主主義の目覚まし時計」と評した。
しかし6年後には「壊れた目覚まし時計」と言い、それを止める側に回った。
この言葉の変化が象徴的にすべてを表している。

…この3回の知事選と、その間の知事不信任決議のこと、
いろいろ覚えていて、もっと書けば面白いかもしれないけど、
長くなりすぎるので、それはまた別の機会に…

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2024/11/17 00:42
なんとなく、壊れた目覚まし時計のクリスタル、
その後、こちらの首長選挙に出馬されました。
長野県でのことをなんとなく知っていましたが、
カジノを含むリゾートの推進は反対という市民からは、
他の候補者よりはまだマシであろうと、
強く支持されていました。




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