ENGINE
- カテゴリ:自作小説
- 2025/05/10 02:37:15
広場に立つ市に集まった人々は夏祭りの鮮やかな色彩を身に纏っていた。人波を縫ってゆくと、プラスティックの破片が混ざり擦れ合うような軽い音の幻聴がある。熱を持ったカレイドスコープの中に落ちたようで眩暈がした。
フルーツの香りに呼び止められた老婆を追い越して、私は露店の間を早足で歩いた。屋台の食べ物や地面に広げられた雑多な物は私の興味を引かなかった。
露店は広場に碁盤の目のように並び、私は両目を左右にきょろきょろさせ、端から順に歩きながら見ていった。祭りの気分は決して嫌いではない。子供の頃に「特別だよ」と渡された硬貨を握り、特別に許される夜の外出に胸を弾ませて友達と駆け出した、あの瞬間をあなたも忘れた訳ではあるまい。
だが、その時私を捕らえていたのはそうした期待感ではなく、よく似てはいるが、むしろ焦燥に近いものだった。背後に迫る宵闇のように、漠然と何か、追いかけてくるもののある感じだ。
だから、それを見つけた時の私の心持ちをどう表現すれば良いのか判らない。
広場の片隅にその店はあった。
どこか異国風の雑貨屋だった。商品を並べているアンティークを模したテーブルや棚にも値札が付いている。その品揃えの国境の越え方ときたら無国籍主義と言うよりいい加減で、それはその品々のどれもが一目で模造品と判る粗雑さやいかがわしさのせいだった。
しかし私はこうした雰囲気も嫌いではなかった。偽物として堂々とある物や、嘘、いかさまの類は時にとても善良だと私は思っている。
私の目を引いたのは、テントの梁から吊るされ柱にくくりつけられた、小さな飾り棚だった。焦茶のニスで塗られた棚には、およそ何の役に立ちそうもない置物が並んでいた。棚の一番下段が私の目の高さにあった。上の方が見えないな、と私は傍らにあった椅子を引いて、その上に乗ると膝で立った。
陶器の置物を一つ、手に取った。
目を細めた猫が皿の水を舐めている。
握り拳に収まってしまいそうな小さな置物だった。精緻だが手描きと判る筆遣いや猫の表情、微妙な色の具合などが気に入ってじっと見つめていると、横から「それが好き?」と訊ねる声があった。
振り返るとそこに立っていたのは私と同じ年頃と思われる少年だった。頷くと彼は私の乗る椅子に膝を載せた。落ちそうになる。「危ない」と彼は私の肩を掴んで引っ張り、空いた手で猫の隣にあった木の置物を取った。私達は肩をくっつけて、私の手のひら程の大きさの置物の絵を覗き込む。「ほら、この鳥は鳴くんだよ」私が椅子から落ちないよう、彼の手が私の肩を抱えた。
置物は中が空洞になっているらしかった。真ん中に雄々しい鳥、それを囲むように花と緑の葉が描かれており、彼が鳥の絵の辺りを親指で押すと、「コウ」と鳥の鳴き声のような音がした。
「おもしろい」
「僕が作ったんだよ」
私達は目を見合わせて笑った。
「これも?」
「そう。これも、これも」
と彼は棚の商品を次々と指差す。私はそれらを見て、彼の器用さに感心した。彼の作品には、魅力的、という言葉が相応しく思えた。そして魅力的な物に出会う機会は限られている。私は猫の置物を握りしめて訊ねた。
「ねえ、他にもまだある?見たい」
「…もう、ないよ」
途端に彼はふくれっ面になった。
「どうして?」
「作ってないんだ」
「どうして作らないの?こんなに素敵なのに」
彼はそれには答えずに私の肩から手を放し、椅子から降りた。訊いてはいけなかったようだ。私が手のひらの上の猫を彼に示して「これ、買うね」と言うと、彼は黙ってただ微笑んだ。ごちゃごちゃと乱雑に並ぶ商品の間を通ってテントの奥へ行き、店主らしき男に「これください」と声をかけた。
男は奥から私達の様子を見ていたらしい。ちらりと外を見遣って私に笑みを見せ、「惜しいね」と言った。
「惜しいって?」
「あの子の時間は、ずれてしまったんだよ」
私は彼の作った猫の置物を見た。猫は白い紙にくるまれ見えなくなった。男がそれを紙袋に入れながら「聞いた事ないかい?」と私に訊いた。私はここ数年、時折メディアで取り沙汰される奇病の事を思い出した。
「…後退しているの?」
「そう。だからもう作れないんだ」
その病は、世界でもまだほんの数十件しか報告されておらず、原因も明らかにされていない。患者達の症例は少しずつ違うものの、男が「時間がずれた」と言ったような症状を見せる。彼の病状は、能力が時を戻したように後退するものらしかった。もしかしたら、外見も若返っているのかもしれない。私は紙袋を受け取って店の外を見た。椅子を元の場所に戻した彼が立ち去る背中が見えた。私は追いかけようと棚やテーブルの隙間を慌てて歩いた。
その時、何かの文字が目の端を掠めた。
しかし気に留めている暇はない。私は人混みの中に飛び出し、彼の背中を探した。
原色の波だ。
惑わされる。
私は人をかき分けて走ったが、彼を見つける事はできなかった。
ドン、
花火が上がった。
空から降り注ぐ赤や青の火の粉を遠く見上げる。人々は花火をよく見ようと河原の方へと歩いてゆく。私は外灯の光から逃れて路傍に立ち尽くした。
ドン、
空一杯に光の花が咲いた。
わあっという歓声。
同じものを見て同じように喜びの笑みを見せる人々。
それは同じように感じているからなのだろう。私は笑う事ができなかった。
私一人が違うように感じているという事なのだろうか。
ドン、ドン、ドン、
続けざまに上がった花火がくるくると回る。私はそれを見上げて、視線を手の紙袋に落とした。少し先にある公園に入り、ベンチに腰掛けて、袋から猫を取り出した。
ドン、
一際大きな音に私は思わず顔を上げた。
…エンジンだ。
私は猫をポケットに入れて立ち上がり広場へ向かって駆け出した。あの店で一瞬目が捉えた文字。子供の頃に読んだ本だ。
世界の果てに空を回すエンジンがあって……
世界は時を刻み続けている……
広場の露店は半分以上がテントを畳んでいた。花火を見に出てきた客を当て込んで、軽い食事を出す店だけがまだ明かりを点している。広場を駆け回ったが、あの雑貨屋も店終いをして帰ったようだった。私は鞄からカンテラを取り出し、小さな光を手にすると、花火に背を向けて家へと続く坂道を駆け上った。
了