Nicotto Town



左回りのリトル(5)

 地下鉄のホームのアナウンスが終わって、僕はそこまでの道々に考えた事を言おうと決めた。
「空木さん、明日休みだよね」
「うん」
「暇?」
「うん」
「『水からの飛翔』の実物が見たいんだ。明日までだから」
「……」
「正確に言うと、銀座に行きたい」
「見たの?」
「うん。空木秀二の絵がいちばん良かった」
「……」
「『水からの飛翔』が見たいのもあるけど、銀座に一人で行きたくない」
「ありがとう。本心だね」
 空は僕の虚ろを見ている。そこでは何一つ隠せない。
「うん」
「いいよ」
 地下鉄の起こす風が僕らの髪を揺らした。




 夕方に空と待ち合わせた。今日から試験が終わるまで、僕はバイトを休む。学校から図書館へ寄った。少し気を引き締めなければ。それでも時折、突然に息苦しさがやってくる。閲覧室の静けさはいつも一人きりの恐怖を内包している。
 出発までの時の長さに足を取られるようだった。10分という時間ぶん、早く立ち上がる僕の弱さ。だが、勉強に打ち込むほど何も考えずにいれば、それは強いのか。
 銀座一丁目で地下鉄を下車する。ホームのベンチに腰掛けて、空は目を閉じていた。
「空木さん」と声をかけると、真っ黒な目を開いた。
「こっち」
 立ち上がると彼女は簡単に言って歩き出す。裾を踏みそうな長い黒のコートに髪とマフラーの赤が鮮やかだ。闇の中で見つけた何かの目印のように、僕はそれを頼りに後ろを歩いた。




 画廊は少し明かりを落としていた。入口から見渡すが目当ての物がない。『順路→』の札でここはL字型をしているのだと気づいた。無人の受付で記帳する。東京都文京区、野宮柾。空は一度訪れているからか、まっすぐ奥へと歩を進める。僕は和紙のページをゆっくりとめくった。月曜の日付まで遡る。その前日。河野の名はなかった。更に一ページ戻る。

  及川美久

 見慣れた細い文字があった。
 こんな事をして何になるのだろう。僕はひどくやるせない気持ちで順路を辿った。
 どの絵にも、印刷で見るよりも深い陰影があった。明かりのせいだけではないのだろう。大きなキャンバスの上には見落としていた細密に描かれた部分や筆の躍動感があった。僕は一点ずつ、ゆっくりと見た。『順路→』の札の角の向こうに待ち受けるものの予感。角を曲がると正面に『水からの飛翔』、そしてその前に空の後ろ姿があった。僕は焦りを抑えて壁の絵を目で撫でて、ようやく空木秀二の絵までたどり着いた。
 静寂が広がる。
 水面をたゆたう裸の女の顔は少し幼く見える。水の流れか水面は小さく波立ち、そこから静けさが部屋を満たしていった。鏡のように空を映し、波の影が濃い。その深さはどれほどだろうと思った。僕が溜息をもらすと空が小声で訊いた。
「どう?」
「うん」
 そう答えてから、なんて間抜けなんだろうと思った。
「これは、どこなんだろう」僕は尋ねた。
「うん?」
「どこから、どこへ、飛び立つんだろう」
「……」
 僕は絵から目を離さなかったが、空がいつものように手のひらを額に当てて俯いたのがわかった。
「父が聞いたら喜んだと思う」
 そう言って僕に顔を向けた。僕も振り向く。空の黒い目は濡れたように光って、泣き出してしまうのではないかと思った。慌てて目を絵に向けた。空も絵を見て言う。
「水面は狭間なんだって父が言ってた。何の、って訊いたら、あらゆるもののって言った。本当にそうなら、それはどこでもないんだと思う。どこかの深みに沈んでしまいそうな危うさから、どこへでも飛び立てる期待感。だからこの絵に惹かれる人は、この絵に誰かを重ねてる。自分の中に棲む誰か」
 美久。
 『水からの飛翔』に出会った瞬間から、彼女の細い体を僕は思い出していた。ゆらゆらと不安定な視線や頼りなげな影、水に流されるようなはかなさ。
「きみも誰かを重ねているの」
「私には、できない」
 空はすっと絵から離れた。僕はしばらく『水からの飛翔』とその前に立つ美久を思って動けずにいた。その後に見る絵は生彩に欠けて見え、入口の手前まで戻ると既に見た絵は壁から外されていた。通りに面した入口の半分にシャッターが下ろされていて、僕は慌てて腕時計を見た。
「野宮君、ちょっと待って」と背後から空が言った。振り返ると空は年配の男性と一緒で、奥から白手袋の若い男が額を外した『水からの飛翔』を手に現れた。男は手早く絵を包む。
「そちらは?」
「双月堂のバイトの野宮君です。野宮君、こちらはオーナーの守屋さん」
 軽い会釈を交わした。
「急ぐならすぐに運ばせるのに」
「せっかく来たから、自分で持っていきます」と言って空は伏し目がちに続けた。「そうしたいんです」
「そうか」
「ありがとうございました。たくさんの人に見てもらえて嬉しかった。この絵が私の所にあるのも守屋さんのおかげです」
「それは梢子ちゃんの手元にあるべきなんだよ。空木君の最後の作品だ。それに、君はモデルなんだから」
「えっ」と僕。そんな事、一言も言わなかったじゃないか。
 空は「え?」と僕を振り返り、少し間をおいて「あっ」と叫んで赤面した。僕もつられて赤くなる。僕は本人の横で、その裸の絵を凝視していたのだ。
「梢子ちゃんがモデルの裸婦像は他にもあるよ。見るかい?」
「守屋さん!」
「いえ、結構です!」
 僕らは同時に叫んだ。




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