左回りのリトル(6)
- カテゴリ:自作小説
- 2025/05/13 10:00:01
「どういう事なんでしょうね」
僕はキャンバス用の大きなナイロンバックを担いで歩きながら横目で空を見た。少し離れて歩く彼女はもうずっと額に手を当てたままだ。外灯の点る銀座は古い歌のような郷愁を失いつつある。東京、という名前で括られてしまうのは、夜が明るくなって街が人に繋がれ続けたからじゃないかとふと思う。
「だって誰もこれを私だと思って見ないもの」
その通りだ、と思った。
「じゃあ、見なくていいって言ったのは」
「本社で父の事ばかり言われたから。本社は嫌い。空木秀二が高く評価されるのは嬉しいけど、それは私とは違う」
赤信号で立ち止まる。
「そうだね。この絵のモデルがきみでも」僕は言葉を探った。「この絵の中にいるのはきみじゃないのと同じだ」
空は無言で頷いた。信号が青に変わり、横断歩道を渡る。向こうから、コートをはおった背広姿の男が携帯電話で話しながらやって来た。男が僕と空の間を足早に通り過ぎるその時、彼女は「あ、」と振り返った。
僕も男を振り返る。知り合いだろうか?と彼女を見ると、立ち止まったまま男の背を見送って、それから虚ろな目で周囲を見回した。
「空木さん」
「ぶつかるかと思った」
「大丈夫、絵に当たらないようにちゃんと避けたから」
僕はバッグを抱え込む。空は弱々しく首を横に振った。
青信号が点滅を始めても彼女は呆然としていた。僕は彼女の腕をつかんで歩道まで駆けた。タクシーのランプが次々流れ出す。小声で何か言うのが聞こえない。「どうしたの」と顔を近づけた。
「彼女にぶつかると思ったの」
背中が凍り付いた。
空はずっと僕の隣の美久を見ていたのだろうか。空木秀二の言葉を借りて語るその間も。すべてを見透かされるような恥ずかしさと畏れが背後から追ってくる。
それから口がきけなかった。地下鉄の明るさの中で言える事など一つもなかった。僕の降りる駅で「重いから、家まで持って行こうか」と尋ねた。「大丈夫、自分で持って行ける」と空は答えた。ホームに降りて彼女を振り返ると、シートに座った彼女はもう目を閉じていた。
改札を出ようとポケットの切符を探り、ふと思い立って数メートル引き返した。ホームへの階段の手前に立ち、腕時計を確認する。山崎はまだ店にいる筈だ。僕はスマホを取り出して店に電話をかけた。
「お疲れさまです、野宮です」
「お疲れさまです。どうしましたか?」
丸山さんはいつも変わらぬ穏やかな調子だ。空の言う丸山さんの安心感に僕は救われる。
「山崎いますか」
「お待ちください」
おそらく側に客がいるのだろう。笑いを抑えながらの事務的な言葉だ。程なく山崎の「お疲れさまです」という声がした。
「終わったら会えないか?」
「どうした?」
「空木秀二の絵を見てきた」
「わかった」
何と有り難い奴なんだろう。
「今、どこ」
「うちの近くの駅」
「そのまま電車に乗って出て来い」
「OK」
二人同時に電話を切った。