Nicotto Town



空白遊泳 1


 階段は静かに佇んでいた。
 階段の足元の先に並ぶショーウインドウが暗くなってから、ずいぶんと時間が経っていた。先刻まで聞こえていたレールの響きも消えた。駅も眠りに就いたろう、と階段は思った。時折、人の靴音が遠くから聞こえるほど、街は静まっていた。
 誰もいない。
 階段が胸の内で小さく溜息をつくと、それに応えるように風がふわりと吹いた。階段の傍らで銀色の手摺が、息を詰めてピンと身を固くしたのがわかった。手摺は臆病者だ。いつも気を張りつめていて、ひやりと冷たい。階段は手摺の緊張を感じとって、そちらの方を見ないようにした。
 ところで、階段はどこを見ているのだろう。
 階段の視点はどこにあるとお思いか?真上の空を向いた、人々の足を載せる面だろうか?それとも階段を階段たらしめる、段差を作る側面だろうか?
 どちらもそうと言えるし、違うとも言える。
 各段の角を直線で結んで出来る面、そこに階段の視点はある。
 だから今、階段が見ているのは紺色の夜空と黄色い月、空をうごめく雲の黒い影、そして視界の下の方に傍らのビルの頭や外灯の光といったあんばいだ。
 階段の頭の上に広がるスペースにはベンチが並んでいた。彼らの間には小さな植え込みが点々とあって、ベンチと一緒に伝言ゲームをしていた。階段はベンチの色が緑色であることも知らなかったが、彼らのくすくすと笑う気配は階段の所まで届いた。
 手摺の付いた低い壁の上には丸い明かりが載っていた。階段は明かりから聞いて、階段の足元の更に下の階層には広場があり、外国の芸術家が作ったオブジェが並んでいることは知っていた。
 ここがどこなのかは、知らない。
 階段の話し相手は丸い明かりだけだった。明かりは辺りをぐるりと見回すことができるので、時折、周囲の様子を教えてくれる。けれど彼らはもともと無口だったから、言葉を交わすことは少なかった。人は明かりの横をすり抜け、階段の上を通り過ぎるだけだった。ベンチのように、人が腰掛けては缶ジュースを飲んで休み、お喋りを楽しむような物だったら、社交家になっていたかもしれない。そう考えると、階段は少し寂しくなった。
 下の広場を覆う天蓋の中央に何かがぶら下がっているのが、視界の端に見えていた。
「あれは何だろうね」
 人は皆、それを指差してそう言った。それに気づかず通り過ぎる人もいた。それは何かを模して造られているらしかったが、階段にも、明かりにも、それを見た人々にもわからなかった。それが何であるかを知っているのは、おそらく造った人だけだと丸い明かりは言った。ただ、風に揺れ、ゆらりと回ってみせる、何かの白い骨格だった。
「名前がわかればいいのに」
 丸い明かりは言った。
「下の連中には名前を書いた札がついてるよ。あれにもきっと名前はあるんだろうね。だけど、あんな高い所にぶら下がっているもんだから、名札も貰えない」
 それを聞いた時、階段は悲しくなったものだった。
「あれはひとりぼっちなんだね」
「ああ、誰にもあれのことはわからない」
 それから、階段は寂しくなると、天蓋の下の何かに視線を投げるのだった。
 太陽はずいぶん遠くまで行ってしまったらしい。どこから来たのか、もう長いこと風は冷たく辺りのすべての物を撫で続けていた。天蓋の下の何かも同じように、すべてを等しく。風だけがあの何かをわかるのかもしれない、と階段は思った。
 天蓋の下の何かからは、辺りの様子がすべて手に取るように見えていた。自分の真下で円陣を組むオブジェの群、傍らのビルのテナントの華やかなウインドウ、目の前を横切るバス通りや電車の行き交う駅のターミナル、そして昼間ならば自分の足元に集まる人々の表情までよく見えていた。けれど、天蓋の下の何かに触れるものは斜めに差す日の光と風の他に何もなかった。誰の手も、誰の声も届かない場所に居た。
 だからその何かは、自分が何者なのかさえ知らなかった。
 自身の形や、それが辺りに落とす影が何を意味するのか、誰も教えてはくれない。
 ただ、自分が孤独であることは知っていた。
 周囲に注意を払うことは孤独感を増すだけだと、天蓋の下の何かは熟知していた。だからその何かはいつも遠くを見ていた。風が遠くからやってくるように、街の上に模様を織りなす屋根の連なりの向こうにこそ、自分に触れるものがあるような気がしていた。
「あれは何だろうね」
 人の声で聞こえたので、手摺はまた身構えて少し細くなったように見えた。低い壁の向こうに誰か来たようだ。教えてくれれば良いものを、壁はむっつりと黙っている。別の声が曖昧に「うん」と答えた。しばらくの沈黙のあとで、声の主が階段の前に現れた。二人連れだった。
 階段は階段であるゆえに、すべてのものを『高い』と『低い』とで区別する。背の高い方がふいに微笑んで「ああ、あれに似ている」と天蓋の下の何かを指差した。
「フレミングの法則」
 背の低い方が「手をこんなふうにするやつ?」と左手で示した。丸い明かりは階段と手摺にもよく見えるよう、小さいその手をくっきりと浮かび上がらせた。左手の親指と人差し指、中指を互いに直角に開いている形は、確かに天蓋の下の何かに似ていた。
 階段は階段であるゆえに、規則性のあるものが好きだった。だから、彼らが何を言っているのかわからなかったが、『フレミングの法則』という名前はとても良い名前だ、と思った。
 階段は階段であるゆえに、二人がその足を自分の上に載せてのぼってくれるといいなと思った。人の靴底を自分の上に感じる時、階段はとても幸せな心地になる。二人が階段をのぼり始めた時、階段は嬉しかったが、彼らが足を止めてそこに腰をおろしたのには驚いた。手摺はますます緊張し、ピーンと音がするほど震えだしそうだった。明かりがくすっと笑う気配がした。
 背の高いのは、背の低いのが作った『フレミングの法則』の左手を覗き込むように見て、低いのの小さい指を自分の大きな指先で差し示しながら話していた。
「向きは人差し指が磁界で、中指が電流。すると導線には親指の向きに力がはたらく」
「じゃあ、あれは」
と低いのが天蓋の下の何かを見遣って言った。
「空に向かって力がはたらいているんだね」
「多分ね」
 高いのは断言を避けたが、にこやかに答えた。低いのもにっこりと笑って「ふうん」とだけ言い、左手のフレミングの法則を解くと膝を抱えて空を見上げた。
 高いのは自分が座っている所より高い段に鞄を置き、それを枕に仰向いた。
「こんなことしてみたり」
 低いのはそれを見て、この人は階段にもなれる人だ、と思ったが、黙って笑みを返しただけだった。低いのが何も言わないので、高いのは少し照れてすぐに起き上がったが、自分の体を受けとめた階段の確かな感触を好ましく思っていた。

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