Nicotto Town



空白遊泳 2


 二人はしばらく黙って、丸い明かりが作った影をじっと見つめていた。やがて高いのがぽつりと言った。
「何かいるね。見えないけれど、確かに」
 それを聞いた手摺は怯えきって、夜気にますます冷えていった。丸い明かりは、また黙り込んだ二人の顔を照らしてじっくりと観察した。二人はかすかな笑みを浮かべて、ただ遠くの闇を見ている。階段は、誰か何か言わないものかと待っていた。
「あの辺りに」
 向こうの闇に向かって高いのが言った。階段は、先刻自分と同じ視点を得た高いのが見ているものを見たいと思ったが、高いのが腕を伸ばして差す辺りは階段の視界には入らなかった。手摺は彼らの注意が自分に向けられていないのがわかると、ようやく体の力を抜いた。低いのが、高いのの言葉を引き継いだ。
「隙間がある」
 そう言いながら低いのは、今、隙間は高いのが言う『何か』で満たされている、と思っていた。正確に言えば、その何かが隙間そのもので、常に自分たちの間にある。それを『隙間』と呼ぶのは、それが空虚に見えるからだが、確実に、それは、ある。
 階段には、やはり何の話をしているのかわからなかった。明かりはもう、二人の会話に興味を失った。手摺は二人がいつ自分に触れるかという恐怖でそれどころではなかったし、壁は最初からすべてにおいて無関心だった。それゆえ、彼らは皆ここで孤独だった。
 彼らの間で、虚ろはそこにあり、彼らは肌にそれを感じていた。危うく風と間違えてしまいそうだったが、明らかに違うのは、それが自分の体をも通り抜けてゆくことだった。それは意図的に触れることができないにもかかわらず、確かな存在感を誇示している。伸ばす手の先に触れるのは君なのに、そうすることによって知らされる虚ろの存在に、この手もさらさらと崩れ落ちそうだ……
 いや、もしもこのまま崩れてしまうなら……
 見上げた空には、雲がゆっくりとした動きで踊っていた。
 誰も、身動きひとつしなかった。
 風だけが地上を愛しく撫で続けていた。
 階段になれるのなら、光にも闇にもなれるだろう。
 辺りのすべてが透き通ってゆくのを感じた。
 ここがどこなのか、誰も知らなかった。
 手摺も階段も明かりも壁も、高いのも低いのも、光も影も、自分が誰なのか、わからなかった。自分がここにいることだけは知っていた。けれど、どこまでが自分なのかは、わからなかった。
 それはまるで流れだった。
 その流れはとても巨大な力のように感じられ、これに乗ればどこまでも漂ってゆけそうだった。あるいは、自分のどこか一部が、流れゆく何かになってしまったようだった。
 その流れが空虚であると気づいている者たちは、己の内の虚ろが外へと広がったことに驚きを感じていた。つまり巨大な虚ろに呑み込まれながら、自分がここにあるという感覚の間違いなさに、自分は世界の果てではないかという疑念さえ生じてきたのだった。
 何もかも夢のように跡形もなく消えてしまいそうだった。
 恐怖が打ち寄せる爪先が、やけに遠くに感じられた。
 どこへゆくのだろう。
 流れは深く、自分の意志さえ見失いかけている。でなければ自分が誰なのかわからなくなることはないだろう……そう考えて、高いのは自分が誰なのか思い出した。
 空の色が淡くなっていた。
 太陽の姿はまだ見えないが、朝一番の電車が動き始めた音がかすかにここまで届いた。
 二人は目配せして立ち上がり、階段をのぼっていった。階段は二人の靴底を心地よく受けとめ、空の方へ消える姿を見送った。手摺は、またここに誰か現れるまで休むことにした。丸い明かりは、決められた時が来たので、静かに暗くなった。
 階段は急に寂しくなって、再び天蓋にぶら下がる何かを見た。
 天蓋の下の何かは階段の視線にも気づかぬまま、ゆらりと体を揺らした。自分をくるりと回す力の流れが空虚であることは知っていたが、そのことが自分に何かをもたらしたこともなかった。天蓋の下の何かは時折、空を支える夢を見た。その夢と風だけが、ささやかな慰めだった。今、空を支えて太陽を待つ。地上を這う生き物たちは何も知らず生かされているのだと思った。
 朝まで階段に腰掛けていた二人が駅の方へと歩いてゆき、道の別れる所で立ち止まったのが見えた。天蓋の下の何かからはとても遠く、二人が言葉を交わしているのはわかったが、何も聞こえなかった。二人はそこで別れて歩き出した。一人はバス通りを右へ、もう一人は前方に伸びる坂道だ。街には人の姿が他にも見え始めた。見慣れた朝の風景だった。
 朝の光が低い空からまっすぐに差して、街に影の地図を描いた。地図の上で、二人はそれぞれの道を歩いていた。道の先は光にかき消されて見えない。天蓋の下の何かは、彼らはまるで自分のように、ひとりきり消えてゆくのだと思った。
 その時、二人が同時に振り返るのが見えた。
 二人は少し見つめあった。彼らは生まれて初めて孤独という生き物と出会ったような気がした。これまでに知っていたことはその影に過ぎなかったかのように、孤独は透明な姿で呼吸し、その鼓動は世界に響き渡っていた。彼らは名前を呼ばれたようにそのことに気づいたが、それは一瞬のことだった。二人は再び歩き始めた。
 天蓋の下の何かは自分の名を知らなかったが、作者が与えたそれの名は、『道標』といった。

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