【小説】限りなく続く音 1
- カテゴリ:自作小説
- 2025/08/14 14:08:05
石垣の連なる細い坂道を、水着の子供が駆け降りてゆく。八枚並べた正方形のタイルに描かれた風景画の中で、手前のタチアオイの隙間を時折誰かが横切ってゆく。朝から強い日差しは窓の外を白く霞ませて、わずかにこぼれた光の破片がこの部屋の床に落ちて息絶えていった。
光の中で何かがきらきらと音もなく舞っている。あれは埃だと父は言ったが、私は虫だと思っていた。眼に見えない小さな小さな虫が空気中を漂っている。
私はベッドの中からそれを見ていた。
身動きもせず虫たちの動きを眼で追っていると、廊下を駆けて来る軽い足音がして、いきなり部屋の戸がぱんと大きな音を立てて開いた。
「起きろちなつ、いつまで寝てんだよ」
飛び込んで来たいとこの草太が部屋の空気を割って、虫たちは散り散りに逃げた。草太は私の視線が自分に向けられていないので「何見てんの」と窓の方を見た。私はそれには答えずにベッドの上に起き上がった。
「そうたのそうは騒音の騒」
「え?」
「出てってよ、着替えるんだから。それから勝手に入らないでよ」
「何だよ、何怒ってるんだよ」
草太は唇を尖らせて出て行った。六年生にもなって、女の子の部屋にいきなり入って来るなんて、何て無神経なんだろう。頭の悪い証拠だ。
草太に初めて会ったのは、半年前の祖父の葬儀の時だった。
初めて会うのは草太だけではなかった。草太の両親、つまり叔母夫婦と会うのも初めてだったし、何より私は自分にそんな親戚がいることすら知らなかった。
斎場で祖父が焼かれている間、親戚たちは控え室でお茶を飲みながら談笑していた。子供と呼べる年齢なのは私と草太の二人だけだった。これは誰だろう、と母の後ろから草太を眺め回していると、草太はニッコリと笑って私に近づき、「ジュース買っていいって。行こうよ」と手のひらの二百円を見せると私の手を強引にひっぱった。
思えば草太は最初からこうだった。私の空気をかき乱す。
控え室から少し離れた自販機の前で、私はようやく「あんた誰」と訊ねた。彼は短く「草太」と答えて、私の手を握りしめたまま「ねえ」と私を真顔で見た。
「おじいちゃんが死んだのに、どうしてみんな笑ってるの」
「え?」
私は草太の顔を初めて間近で見た。まつげの濃い大きな目の縁に、涙の乾いた跡があった。お坊さんの読経の間も、焼香の時も、草太は大粒の涙をぽろぽろとこぼしていて、私は(誰だか知らないけど男のくせにみっともない)と思ってそれを見ていた。
「俺あそこにいたくない。ちなつもここにいようよ」
と草太は言って、自販機に百円を入れるとコーラのボタンを押した。私は「どうして私の名前を知っているの」と訊いた。
「お母さんから聞いてたから。俺と同じ五年生のいとこがいて、千夏っていうって。ハイ」
ハイ、と言いながら草太は私に百円を差し出した。私は自販機のジュースの缶を眺めて、どれにしようかと迷った。草太は本当に戻る気はないらしく、傍らの長椅子に腰をおろすとコーラをごくごくと飲んだ。
「…コーラ飲んで怒られない?」
「何で?」
「コーラは歯が溶けるから飲んじゃだめだってお母さんが言うもの」
「えーっ、ちなつはコーラ飲んだことないの?」
「うん」
「バカ、そんなの迷信だよ。今飲んじゃえ。誰も見てないもん、だいじょうぶだよ。俺、黙っててやるよ」
迷信というのとは違う気もした。よく知らない草太といういとこと二人きりなのは少し嫌だったが、ずっと飲んでみたかったコーラを飲むチャンスを見過ごす手はなかった。私はどきどきしながらコーラを買って、草太の隣りに腰掛けた。初めてのコーラの炭酸は草太のように突然で戸惑った。
「ねえ、おじいちゃんて、ちなつにも怖かった?」
「私にも?」
「お母さんが怖い人だって言ってた」
そう言って少し俯いた草太は先程の真顔に戻っていた。
「怒ってばっかで怖かったよ。でもお父さんたちはおじいちゃんを嫌いなんじゃないよ。長生きしたし幸せだったし、苦しまずに死んで良かったねって言ってたよ」
「ふうん…」
草太は残りのコーラをごくんごくんと飲み干して、軽いげっぷを一つした。「行儀悪いよ」と私が言うと、「しょーがねーじゃん、コーラ飲むと出るんだもん」ともう一度、今度はわざとげっぷをしてみせた。祖父は行儀にうるさい人だった。(だからコーラを飲んじゃいけなかったのかな)と思った。
私は水着の上にワンピースを着た。朝食の後で草太と泳ぎに行く約束なのだ。廊下をぐるりと廻って居間の障子を開けると、奥に座った草太が「おせーよ」と睨んだ。父の席にいる草太。朝早くに出勤する父とは夕飯で一緒になるだけだ。いつもは空席の朝の食卓に、見慣れぬものが入り込んでいる。私は落ち着かない気持ちで草太の向かいに正座した。母がご飯をよそってようやく食事が始まった。草太はあじのひらきをおいしそうに食べながら言った。
「朝からごはん食べられるなんていいなあ、俺んちなんていつもパンだよ。朝は俺一人だもん」
「…草太君ちは共働きだものね」と母がゆっくり答えた。私は食事の時に大きな声で話す草太に驚いていた。祖父がここにいたら「飯の時は静かにしなさい」と怒っただろう。そう言うと、草太は黙り込んで、おかわりを二回して、ごちそうさまと頭を下げて立ち上がろうとし、「足が痺れた」と言ってごろりと転がった。
はじめまして、コメントありがとうございます。
私は作品において、行間には『言葉が描き出した映像や言葉にならない想い』が
あって、読者様にはそこをご自分なりに味わっていただく、という信念で、
行間を詰めて、あるいは開けて書いています。
そのため、それ以外に行間を開けてしまうと、言葉が分散し
伝えたい意図が伝わらなくなってしまいます。
ご了承ください。
ただ、文字が詰まっていて読みにくいので、
行を開けたりした方がもっと読みやすいかなと思いました。
お読みくださりありがとうございます。
小説はたくさん書いたけど、小学生を主人公にしたのは
この作品のみです。
草太ののびやかさは私にも救いでした。(*´꒳`*)
お読みくださりありがとうございます。
だいたい1980年頃を想定しています。聖子ちゃんがデビューした辺りですね。
続編もたのしみにしてます。◕‿◕。
今は自販機で 100円で買える物って
ほとんどないと思うけど