【小説】限りなく続く音 8
- カテゴリ:自作小説
- 2025/08/19 14:56:26
息を切らし汗を流して登った山の林を抜けると視界がひらけた。どこまでも広がる空と海ばかりがそこにあった。見下ろせば漁をする船が波に揺られている。トンネルでくぐった山を隔てた所にある小さな漁港から沖に出た船だ。私たちは手をつないだまま、岬の突端に立って崖下を覗き込んだ。
「危ないよ草太」
「うん。だいじょうぶ」
「怖くないの?」
「怖いよ。でもちょっと平気」
「うん」
草太の言うことが、今度はわかった。私も同じ気持ちだったからだ。
揺らめく海面が光を撒き散らし、私たちの目を眩まし吸い寄せようとするのを、切り立った崖の縁で見ている。
危ういのは足元ではないのかもしれなかった。
つないだ手が私たちを地の果てに留めていた。だから、怖いけれど、怖くなかった。
私たちは平らな岩の上を歩いて、浜辺の方を向いた。草太は「ここからだと、ちなつのうちは見えないね」と空いた手を目の上にかざして山の方を見た。
いつかは海の近くに住みたいと考えていた父が現在の家を買って移り住んだのは、私が生まれてまもなくのことだった。だから私は覚えていないが、後に聞いた話によれば、海が好きな父は私に「豊かな自然のある所でのびのびと育って欲しい」と考え、祖母も亡くなって独り身になった祖父にも「老後をのんびりと過ごせばいい」と言って、同居を勧めたということだった。祖父がどう考えたかは知らないが、父の「豊かな自然云々」が私にとって本当に良いことなのか、私自身は疑問に感じていた。それは父の理想だったが、日々に目にする海は、そこにあるだけで私を圧倒した。
何者にも動かし難い絶対的な存在に幼い頃から漠然と気がついてしまった私は、世界に怯えて暮らしていた。
祖父は海のように、家での絶対者だった。小言も多かったが、自らにも厳しい人だった。波間を泳ぎ、全身で海を感じる時、私は自分の孤独と海の懐の深さをいつも思う。海では誰も独りきりだ。けれど海は独りを包み込む。冷たく深く。祖父は私と二人きりになると優しかった。祖父は海の人だった。
それなら、荒れた海の遠い沖まで泳いで行きたい草太は、独りになりたいのだ。そして独りを抱きとめて欲しいのだ。
暑い日差しを避けて四阿のベンチに腰掛ける時、私たちはようやくつないだ手を離した。私は水平線に目を遣ったまま「草太」と話しかけた。
「おじいちゃんは、草太のこと嫌いじゃなかったと思うよ。会えてたら、きっと、草太にも優しかったよ」
祖父は海の人だったから。
草太も海を見つめて「うん」とだけ答えた。