【小説】限りなく続く音 18
- カテゴリ:自作小説
- 2025/08/21 07:06:36
展望台にも草太はいなかった。辺りは何事もなかったというように、空は紫色に暮れて、山の影は黒く、海からの風は強く、波音は変わらず、星が昇り……、私をなだめようとするかのようだった。
「草太ー!」
私の声を波音がかき消す。
届かない声だった。
私はこの前通ったのと同じ、山の反対側を廻る道を選んで下った。崖下は満ち潮で水位が上がっている。私は岩を伝って波の寄せるぎりぎりの所に立ち、薄暗い周囲に向かって叫んだ。
「草太ー!草太ー!」
崖下で何かが動いた。
目を凝らしてじっと見ると、崖下の窪みに草太が膝を抱えて座っていた。私は靴を履いた足のまま、膝まで波を受けながら草太に近づいた。
「探したよ。帰ろう、草太」
草太は「帰れないよ」と答えた。私は岩を登って窪みに入り、草太の傍らに座って「どうして」と訊ねた。
「…おじいちゃんと俺のハハオヤが、親子の縁を切ったのってどうしてか知ってる?」
「ううん…」
「ハハオヤのお腹に俺ができたから」
「え?」
「その時、本当の父親とはまだ結婚してなくて、父親は俺ができたって知った途端、トンズラしちゃったんだ。おじいちゃんは、ハハオヤが俺を産むのに反対して、それで」
「……」
「…俺、いらない子供だったんだ。父親にも、おじいちゃんにも」
≪ザザザザ…≫
波が私たちの爪先を濡らした。
「でも…」
どう言えば草太を慰められるのだろう。それは慰めに過ぎないのかもしれなかった。本当の救いというものがこの世にあるのか疑わしかった。
「でも聡子叔母さんは、反対されても草太を産んだんでしょ。いらないなんて、そんなことないよ…」
もう日は沈みきったのだろう、明かりのない地の果てに、ふいに夜の闇が降りてきた。(見えない、)と私は目を瞬いた。突然の話に、祖父の心がわからなくなってしまった。だから、草太に対する祖父の気持ちを語ることはできなかった。波がただ私たちの足首を濡らしては海へ帰っていった。
「いらない人なんて、いないよ…きっと…」
うまく言えなかった。
独りがとても怖いこと、誰かにいてほしいこと。
ザブンと波が大きな音を立てて、私たちの抱えた膝まで届いた。
「うわっ」
私たちは窪みを這って、波がそこまで来ているのを見た。私が歩いてきた岩はもう水面に隠れていた。「泳いで戻ろう」と言う草太を止めた。波が高すぎる上に、辺りは岩だらけだ。草太は呆然と海を見た。
「どうしよう…」
「大丈夫、お母さんも探してるから…きっと…」
私は草太の手をぎゅっと握った。
「…大丈夫だよ。自転車…、養殖場の所に置いてきたから、私がこっちに来たってわかる…。きっと探しに来てくれるよ」
「…うん」
「私がついてるよ」
「うん」
波は私たちの腰を濡らすまでになっていた。私たちは窪みの奥へ下がって波を避け、手をつないで、震えながら、じっと辺りの気配に耳を澄ましていた。
体が冷えていく。
「もしもの時は、泳げるか」
「うん」
「怖いか」
怖い。でも、怖くない。
独りじゃないから。
「大丈夫」
「よし」
長い長い時が過ぎたように感じた。
おーい、おーい、と呼ばれた気がして立ち上がった。腕を引っ張られた草太も立ち、窪みから身を乗り出すと、懐中電灯の光が揺れていた。
「おーい!」私たちも叫び返す。波音は荒く、声が届いたのかわからなかった。草太は私の手を放し、腕時計のライトを点けて手を高く挙げた。私は「おーい!」と叫び続けた。
光がこちらに向けられた。私たちはここにいると、大きく腕を振った。
光が丸を描いた。途切れ途切れに声が届いた。
「今ァー、船を廻すからー、動くんじゃないぞー!」
「助かったァ」
私たちが顔を見合わせた時、ドンと大きな音がして、何も見えなくなった。