自作小説倶楽部8月投稿
- カテゴリ:自作小説
- 2025/08/31 21:02:55
「上階の女神様」
背後から声を掛けられて少し驚いたが振り返ると見知った温和な笑顔があった。同時にここ数日の帰宅時間が遅いことを言われたのだと気付く。有紀子は笑顔を作り応じる。
「時期的なものです。何か連絡はありますか?」
相手はマンションの管理人だけあって白髪もきちんと散髪され、服装も清潔そうだ。「イギリス人紳士って感じよね」と言ったのは田中さんだったっけ。もちろん管理人の瀬川さんは純日本人だ。
自立と一人暮らしの気ままさを手に入れるため実家を出て引っ越したがセキュリティ面で過保護な父親を納得させるために決めたマンションは単身者が少なく近所付き合いがやや面倒だ。一度一週間旅行で不在の時に回覧板が滞ったことを前管理人に厳しめに注意されたので、思わず瀬川に対しても身構えてしまう。
「ええと、不審者情報があるので夜道に注意してください」
「そうですか」
気を付けようと思ったが取って付けたような言い方が気になった。
そして、自分の部屋で一息ついてから気付く。
時刻はすでに22時を回っていた。管理人の勤務時間は17時までだ。5時間も瀬川は何をしていたのだろう。
◆◆◆
翌朝、有紀子はエントランスを出る時に上の階の琴美さんと一緒になった。
「おはようございます」と言う笑顔も凛々しくて、見とれて、いい加減な化粧しかしていない自分が恥ずかしくなる。
琴美さんは一か月前に引っ越してきた新婚さんで知的美人なうえにシンプルなパンツスーツが良く似合う。短めのボブカットはどこの美容室で切ってもらったのか聞いてみたい。会社でも役職付きのようで少し話しただけでも頼りがいがある性格が伝わった。両親に女の子らしさ、勉強よりも可愛くあることを求められ育てられた有紀子にとって琴美は別世界の完成形だった。
「お仕事、忙しい?」
「そうですね。あと少しはこの状態が続きそうです」
駅まで歩きながら話す。昨夜の瀬川と同じことを聞かれたなと気付いたが不快さは無く、むしろ癒しを感じる。琴美さんが上司ならどんなにいいだろう。リーダーシップがあって、ちゃんとフォローしてくれて。
比較対象は有紀子の今の上司だ。ダサいおじさんなのはやむ終えない。しかし仕事の指示が不適格な上に、本人は部下とコミュニケーションを取っているつもりなのか仕事に関係ないことを一方的に言ってくる。例えば有紀子の口紅の色が濃すぎで気持ち悪いとか、お気に入りの万年筆を安物だとか、否定的なことばかりだ。
「どうしたの難しい顔をして」
琴美がいぶかし気な表情をしているのに気付き有紀子は慌てて思考を打ち消す。
「えっと、昨日、不審者に注意って聞いたせいかも」
「不審者? そうなの?」
琴美に不思議そうな顔をされて有紀子は瀬川の嘘を確信した。
◇◇◇
過保護な親に相談するのは論外だが、管理会社に苦情を入れるのは早計な気がした。瀬川の不審な行動に気付いたばかりで、瀬川がしらをきればそれまでかもしれない。
迷っているうちに仕事に集中出来ず、さらに残業することになってしまった。疲弊して電車に乗った。他の乗客の中に瀬川の姿を見たような気がして暗澹たる気分になった。
「お疲れ様。有紀子さん」
下車駅の改札を抜けたところで声を掛けられはっとする。琴美が側に立っていた。
「こ、琴美さん」
「突然ごめんなさい。今朝のことなんだけど、あなたに話しておかなくてはならないことがあるの」
「?」
砂漠で救いの女神に会ったような気がして、思わず涙ぐみ、言葉が出ない。頭が真っ白になった瞬間、周囲に野獣のような叫び声が響いた。
それが人語であると認識したのは、その中に「殺してやる」という言葉があることを理解したからだ。気付くと琴美に腕を引かれて騒ぎから遠ざけられていた。そして、なお発せられる叫びの中心に目をやると、そこには管理人の瀬川と瀬川に押させつけられて悪鬼のような表情で有紀子を睨みつける上司の姿があった。
結論を言うと、有紀子は上司にストーカーされていた。上司は一方的に有紀子への想いをこじらせ、部下の個人情報を調べ上げて住まいの周辺をうろつくようになっていた。職場でやたらと有紀子に絡んでいたのは楽しくおしゃべりをして仲を深めているつもりだったらしい。
その日、何故ストーカーが激高したのかというと、何故かパンツスーツ姿の琴美を男性と勘違いしたからだと後になって聞かされた。あんな美人をどうやったら男と見間違えるんだ。ストーカーという奴は脳も目も腐っていると有紀子は憤慨した。
しかし、この事件で最も衝撃だったのは、管理人の瀬川の正体だった。なんともと警察官で琴美さんのお父さんだという。琴美さんによれば結婚した娘の引っ越し先のマンション管理会社の面接を受け、「受けてみたらたまたま、」と事後報告してきたそうだ。
ストーカーに気付いてから元警察官の魂に火が付いた瀬川は娘の新婚家庭に入りびたり、警戒していたそうだ。
困ったお父さんだと思ったが、結果、ストーカーの脅威も無くなり、琴美さんと親しくなったので有紀子としては結果オーライである。