【小説】橋の下の家 7
- カテゴリ:自作小説
- 2025/09/07 12:31:14
「…夜明けが近いな。急ごう」
彼は立ち上がり、老木の枝に手を掛けた。私は疲れ果て、もはや動く気力はなかった。彼はペン程の細い枝を三本選んで手折った。枯れ枝はポキリと乾いた音を立てて折れた。再び彼は私たちの前に胡座を掻き、折った枝の端をナイフで斜めに切って長さを揃えた。そしてナイフを傍らに置いて、懐からペンを取り出した。枝の切り口に印をつけながら、彼は笑い顔で……言った。
「一人、一本ずつ籤を引く。直線の印は川の流れだ。落ちる者。十字の印は墓。墓守として拾われる。そして、印のないものが」
籤の印を私達に向けて、彼は厳かに宣言した。
「僕らの運命を定める者だ」
この中の誰かが、この三人の運命になる。
あの夜、私達が取り決めたのは、次のようなものだった。
一人は、川に落ちる。運命によって流れに突き落とされ、運命に見放された生に終止符を打つ。
一人は、運命に拾われる。すべてを失った生に、役目を与える。この場合、他の二人の名誉を守るという仕事である。
最後の一人は、この三人の運命となる。
一人に死を、一人に生の意味をもたらし、自らが運命となることで、また大いなる運命に拾われる。
そうして私達はこの丘に墓穴を掘り、いよいよその時を迎えた。
静かだ。
何の物音もしない。風もなく、冷えた空気の中で、私達は熱を帯びた手を伸ばした。彼の握る枝の一つを選ぶ。彼女と私がそれぞれ枝を掴んだのを見て、彼は「では、引いてください」と掠れた声で言った。
彼の手から、枝を抜き取った。
先端の印を見る。
何も───なかった。
私が、この三人の、運命───
「僕が墓守だ」
その声に、私は彼女を見た。彼女は私を見て、穏やかに微笑んだ。
彼は傍らのナイフを拾って私に差し出した。私が躊躇していると、彼は顎を上げて私を見下ろすように視線を投げた。
「これこそ天の配剤と呼ぶに値するじゃないか。あなたこそ僕らの運命に相応しい」
そう言われて、私は……これが私を拾い上げる大いなる運命の導きかと眩暈を覚えながら、彼の手からナイフを受け取った。
私と彼女は向かい合わせに立ち、彼は私達を見守るように少し離れて立った。
「苦しまないように。心臓を一突きだ」
彼はそう言って唇を噛みしめた───笑うことなく。
彼女は目を閉じた。背筋を伸ばし、じっとして、自分の胸の上に運命の刃が振り下ろされるのを待っている。
手が───震えた。
彼女の青ざめた頬の上で、長い睫毛の影がかすかに震えていた。
「……できない。私には、できない」
彼女がゆっくりと目を開けた。深い色の瞳が、私を憐れむように揺れた。
「私が君の運命だなどと……命を奪うことなど、許される筈がない。そうとも…、誰にもそんな権利はないじゃないか…」
「誰が許さないと言うんだ?」彼が笑った。「これは僕らが決めたことだった筈だ」
「いいのよ。今の私は、死んでいるのと同じだもの。…あの人の居ない人生に何の意味もない。それで生きてどうするというの」
「ほら、僕らが許しているんだ。運命に従うと。さあ運命よ」
「やめてくれ!」
私は彼に駆け寄った。
「運命だなんて呼ばないでくれ!私はそんなものじゃない…。どうしても、我々に運命が必要だと言うのなら、私を殺してくれ!私は年寄りだ、先も短い、それこそ…今死ぬのも同じだ。君達はまだ若いじゃないか、この中で死ぬなら私が」
「あなたは罪の意識から逃れたいだけだ!」
彼の鋭い語気に、私は動けなくなった。
「あなたは家から逃れてここへ来た。そしてここからも逃げようとする…。あなたが墓守をやるといい。同じ罪を背負うのでも、手を下すよりは気が楽だろう」
彼は力の抜けた私の手からナイフを抜き取って、私の目をまっすぐに見た。
笑ってはいなかった。
「それが罪を負うことでもかまわない。僕は、生きている」
ゆっくりと彼女に歩み寄る彼の背中を、ぼんやりと見ていた。彼は彼女の前に立ち、静かに尋ねた。
「僕は今、生きていると感じている。君はどう」
「……」
彼女は、無言だった。
私は恐怖にふらつきながら、彼に近づいて行った。止めなければ、彼を止めなければ……
「やめろ、その人に…手を出さないでくれ。お願いだ」
彼のわずかな動きに、眼鏡が星明かりを映して、一瞬、彼の横顔に光が走った。
「…本当に、あなたは僕の運命だったんだな」
彼が何を言ったのか、理解するより先に彼はナイフを持つ手を振り上げた。
「やめてくれ!」
私は彼の手を掴もうと必死で手を伸ばした。彼は自分の胸へとナイフを振り下ろした。指先が彼の手に───
「やめろ───ッ!」
「いやあああ───!」
彼女の悲鳴が辺りにこだました。倒れた彼の胸に刺さったナイフは、空から落ちた銀の月のようだった。