【小説】橋の下の家 8(完結)
- カテゴリ:自作小説
- 2025/09/07 12:33:24
私の爪先で蒲公英が揺れていた。目の前を流れる川は高く昇り始めた太陽の光を受けてきらきらと輝き、橋の影はなお深く見えた。
冬を越えて、私は再びここに居た。
まだ───迎えは来ないらしい。
疲れた膝をさすっていると、彼女が土手をゆっくりと下りて来た。
「今日は具合がよろしいようね」
「ああ、このところ暖かくなったからかね。ここに来るのも久しぶりだ…。髪を、切ったんだね」
「ええ。このところ暖かくなったからかしら」
私の横に座り、そう答えて彼女は微笑んだ。軽く俯くと、顎の辺りで揃えた毛先がふわりと揺れて美しい。
あれから彼女は、時折私の家を訪ねるようになった。臥せていた私の話し相手になり、孫を可愛がり、息子夫婦の作った野菜を買って帰る。私を「おじさま」と呼んで懐いた。私もまた娘が出来たようで、彼女の来訪を待ちわびるようになっていた。
「何か、あったんじゃないのかね」と尋ねると、彼女はクスッと笑った。
「何もないわ。けれど、それでいいの。…あの人は…」
と、ふいに目を伏せた彼女は寂しげに見えたが、
「もう私を思い出すこともないのでしょうけど、それはあの人が幸せに暮らしているってことだと、思えるようになったの。……きっと、春のせいね」
「ああ、そうかい…」
私たちは笑みを交わした。穏やかな日差しの暖かさが辺りに満ちてゆく。
「あの夜、彼が言ったことを思い出したわ。≪僕は今、生きていると感じている≫と言って、私はどうだと尋ねたでしょう。あの時、答えられなかった。……だって、私も生きていると感じていたんだもの。あの人が居なくなって、私は自分が生きているのかどうかもわからなくなっていた…。けれど彼に尋ねられたあの瞬間、私は生きている実感をひしと感じたわ。だから答えられなかった。自分の言ったことが間違っていたんだもの」
「彼は…、なぜ、私を運命だと言ってあんなことをしたのかな…」
「さあ、私にはわからないわ。……そうね、でも」
と彼女は蒲公英を摘んで、指先で茎をくるくると回した。太陽を映したような黄色い花は私達の間で回った。
「おじさまが彼を、自分に何か運命をもたらす者だと感じたように、きっと同じことを彼もおじさまに感じていたのね。夜毎、お酒を持って自分を訪ねて来る人なんて、これまでなかったんだと思うわ」
私は、彼が私を橋の下に見つけた時の目を見開いた驚きの表情や、その後には私より先に来て葉の盃を作って待っていたことなどを思い出した。
「…彼は、生きていると感じていると言った。そう感じさせたのはおじさまだった。だから、おじさまを≪僕の運命だ≫と言ったんじゃないかしら…。だからきっと、私も、おじさまも、刺せなかった」
私は足元の葉を一枚取って、盃の形に丸めてみた。若い葉は手の中ですぐに元の形に戻ってしまう。私の手元を覗き込んで、彼女が笑った。
「葉がまだ小さいんじゃないかしら」
「いや、大きさじゃないんだが……。やはり、難しいな」
「これは彼にしか出来ない仕事ね」
私は葉を丸めることを諦めて、「そうかもしれん」と答えた。
カサ、カサ、と近づいた足音が、止まった。
私と彼女は顔を見合わせて、……笑った。
ゆっくりと振り返る。
眼鏡の奥の目を見開いて、彼がそこに立っていた。
あの夜、彼がナイフを自らの胸に突き立てようとした時、私の伸ばした手がわずかに触れて、ナイフの先は急所を外れた。まだ息があった彼を、私達はすぐに医者の許へ運び込み、彼は一命を取り留めたのだった。
そうして私達は、彼の傷が癒えるのを、ずっと待っていたのだ。
私は手にした葉を彼に見せて言った。
「やっぱり、上手くいかんよ」
彼は困惑の笑みを浮かべて俯き、眼鏡を外して深い溜息を吐いた。そして、顔を上げて───
微笑んだ。穏やかに。
彼は黒髪を掻き上げて、あの調子で言った。
「…まったく、これは何の冗談なんだ?」
私たちは立ち上がり、彼に歩み寄った。手を伸ばして言う。
「おかえり」
まるで家族のように。
(了)
コメントありがとうございます。
文字から人の姿、風景をご想像いただいたということでしょうか。とても嬉しいですね。(*´꒳`*)
誰に演じてもらおう…考えてもみなかったけど、想像するのが楽しいです。
こちらこそ、お読みくださりありがとうございました。
命に関する作品が続きましたが、作品執筆は常に自問自答です。
誰も命を失わずに前を向いてる。
読ませていただきありがとうございました。
待ってました^^