イデア論と神様のお話。
- カテゴリ:日記
- 2025/10/15 14:07:22
私は良く人の幸福を願う時に「祈ってます」と言うワードを使う。
ただそれは適切な表現では無く、それこそ「願ってます」って伝えた方が良い事に気づいた。
その理由は私は特に祈る神様がいないと言う理由になる。
前提として「神様」と言う存在を否定する訳でも無ければ「宗教」を否定する事では無い事を理解して読んでもらえると嬉しい。
私はソクラテス氏から始まり、プラトン氏、そしてアリストテレス氏の3人の人物に影響を受けた俗に言う量産型の哲学語る人みたいな感じである。
まずイデア論の簡単な説明として、私達は例えば斬新な椅子を見た時でも大体の場合にそれは「椅子」なのだと認識する事が出来る。
まな板だって言ってしまえば、見方によってはただの板に見えると思う。
ただ貴方はそれをまな板だとちゃんと認識している。
それはイデアと言う「物事の完成形」が存在している世界があって、私達はそれの影を見ている。
生まれながら人間にはイデアの影を見る能力が人間にはあって、だからこそ物事を認識出来る。
そんな様な解釈できっと良いと思う。
そしてそこで問題になってくるのは、イデアと言うのは「完璧な世界」なのだ。
その完璧とされた世界には「神」はいないのである。
だからきっと、イデア論を信仰する物に神の存在を説いたとしても「いや、いない。」と言う事になってしまう。
私はイデア論は好き。
だけど神様がいるって言う考え方も好き。
神話だって好き。
だからきっと、完成された世界なんて存在しなくて何処かに欠けた物があるのだと思っている。
余談にはなってしまうけど、神は7日で世界を創ったと言う言葉を耳にした事がある人は多いと思う。
ただこの言葉には誤りがあって、そもそも人類も何も存在していないところに「日付」と言う概念は存在していない。
だから一見、一週間で創ったんだ。
ってなりがちなのがややこしいって言うお話。
キリスト教の神は「ヤハウェ(エホバ)」いわゆる聖書で語られる物と言う解釈でよろしいでしょうか。
一応聖書は拝読させて頂いた事があり、色々な方の意見もキリスト教に関してはお聞きしたことがあるのですが皆様やはり都合の良い解釈をなさっていますね。
努力した結果報われる、そこに神は関係していない。
真理だと思います。
存在についても、私はいないと思っているけどいない方も否定はしない。
と言う事を明言しているのは俗に言う「悪魔の証明」と言うような思考の元発言しております。
いる事を証明出来る可能性はあっても、いない事がある事を証明する事は出来ない、と言った考えです。
宇宙や深海、そして現代の科学で私達の身の回りにある「摩擦」等の概念も科学や物理学でも完璧に説明な説明が出来ないように、確かに「神の手」もしくは「神のいたずら」の様な物の存在は沢山ありますね…。
科学と化学や物理学、果てはその基盤となった錬金術すらもまた、それを突き詰めた方が行き着く先はもしかしたら「答えがない」と言う「答え」が存在してしまっていて、宗教や哲学で自分の研究の正当性を主張する事に行き着いてしまうのかな、と思います。
ちなみにこの記事ではイデア論を語る為に私は3人の偉人の名を上げましたが、私の哲学の起源は松尾芭蕉氏にあります。
神様や仏様の必要性の「時間」と言う概念に関しては私は本能で自分の種を残す事。
それは未来と言う物を生物は本能的に紡ぐ事にあるのかもしれないと思っています。
自ら自死を選ぶ生き物が「人しかいない」と言うお話がこの世界に有るように、人間は他の生き物とは明確な違いがあり、その上で時と言う概念を本能ではなく理屈で考えているのは人間だけなのかもしれませんね…。
私は日々を趣味と仕事で過ごしながら楽しいと感じている。
ただそれでも「死」と言う概念は私にとっては楽しみなものです。
死にそうになれば生きようと努力はしますが、未知なるものが如何なるものだったとしても私に自我が残っているのであれば、その環境を受け入れてその事でも哲学してみようと思っています。
後は私の学の無さがバレてしまうのでこのコメントがこの書き込みに対するアンサーになりそうです。
ちなみに私は自称無神論者です。
また書き込んで頂けたらその時は是非、どの様な事でもお話しましょう。
私の稚拙な文章、失礼致しました。
まず国ごとの神様と言う概念を私はこの記事で一言で「神様」と称してしまっている事に謝罪をしなければならないですね…。
そして各神様のお話、ありがとうございます。
日本の神様に関して知識がかなり浅かったのですが、確かに私が耳にする日本の神様のお話は以前のコメントの中にあった様に「生贄」や「お供え」を要求する物であって救済をする、と言うよりもそれによって「生かしてあげる」の様な感じがしてしまいます。
元々は人間だった菅原道真公氏が死後、怨霊になった。
思えば「イザナギ」等も元は人間だったものですよね。
日本の神様は俗に言うヤハウェ(エホバ)の様な聖書に書かれているような創造主とはまた違った存在で、元は人間だったのですね。
そう思うと日本の神様に救済は求められず、本来は自然にあるはずの物を取り戻せる。
その様な物になってくるのでしょうか。
仏様に関してですが、蜘蛛の糸のお話は幼い頃に何度か耳にしただけであまり深く理解出来ていないので、ご容赦を…。
カンダタ氏が蜘蛛を一度「救った」それだけで地獄から助けてくれるお話。
そう思っていました。
ただそれにあやかってその糸に他の罪人もあやかってしまったが故に切れてしまった。
人の生への執着、そして傲慢さを表すようなお話だったと解釈しております。
善人だから救われる、と言う事ですが善悪の境界が仏様と人間の理解ではまた異なったものになって来そうと思ってしまうので、中々に難しい話になってきそうですね…。
そのうち「善と悪」についても私は日記で綴る機会があるかもしれません。
救済と言う概念がどの様なものなのかしれませんが、十界の最下層の様な地獄が本当に死後に存在しているとしたら、救済を望みたいところですが現世で起こり得る不幸な出来事でしたら特に救済と言った事は求める事はせず、起こった事はそのまま享受するつもりで私は生きています。
それこそ私は善人を装う自覚無き悪人と言っても過言ではないので。
ただそれでも、ここに来てくださった皆様や勿論、天仙玉女碧霞玄君様にも健やかな未来が訪れる事を願ってしまうのもまた、私の傲慢であり罪の一つなのかもしれませんね。
死後どうなるのかにもよりますが、輪廻転生やそういった概念や生まれ変わりに準ずる何かしらがあるとすれば人類が滅ぶ事はある意味の救済なのかもしれないですね…。
キリスト教の神は条件付き?
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん」
原語のニュアンスを加味すると「求め続けなさい、探し続けなさい、門を叩き続けなさい」なんだそうです。つまり不断の努力が必要最低条件です。努力し続ければ願いを叶えてくれるということなのですが、それってもう努力した人自身が得た成果で、もはや神様関係なくない?
神や仏は存在するのか?
科学の発展目覚ましい現在でも理論上存在するけど、証明されていないものがたくさんあります。ダークエネルギーやダークマター、宇宙は1つではなくマルチバースだけどそれが泡宇宙なのか平行宇宙なのかもわからない。
理論上は存在がわかっていても検証できないものがあるのに、神仏の存在は科学理論の俎上にすら載らないのですから存在する・しないは個々人の考えに記するしかないのでしょう。
何十年前だったか覚えていないけど、当時の最新の宇宙論の番組内で宇宙の始まりはビックバンだけど、それはどうして起こったのかと質問されて「神の手としか…」と答えた科学者がいたことが思い出されます。
昔から、欧米の有名な科学者の多くが熱心なクリスチャンだったりします。哲学者の大森荘蔵先生は物理学から哲学に転向されています。科学者の心の拠り所が宗教や哲学というのはさもありなんという気がします。
神や仏の必要性
すべての人に必要なものではありませんが、多くの人には必要なもののようです。
過去や未来という時間概念は人にしかありません。動物の場合、種によっては数時間程度の時間概念や経験に基づく過去はあるようですが、概ね現在しかないといって問題ないようです。
この時間概念があるため、人は未来に希望を抱くと同時に病気や老いなどの不安も感じ、その先にある死を理解することができるのです。こういった不安を抱えて生きることはなかなかにつらいものです。
それらをやわらげ心が壊れないようにするために宗教が生まれたという説があります。救いや死後の世界や輪廻転生を信じることで不安を軽減し、死者を弔うことで悲しみの共有や心の整理をするのです。
他にも、未知のものや理解を超えたもの事を受け入れる時にも神仏は有用ですし、救ってくれない・願いを叶えてくれないとわかっていても神頼みしちゃいますしね。
因みに自称仏教徒です。
まだ少し仕事中なのでざっくりとしか読めていないのですが、仕事が終わり納品でき次第改めて読ませていただきます…!
是非続きも宜しければお聞きしたいです…!
以下、順不同で特に特定の人に対してというわけでもなく、長々と書き散らしますのでご寛恕のほどを。もちろんスルーOKです。
日本の神も仏もキリスト教の神も願い事など叶えてくれないし、ましてや救ってなどくれません。
まずは日本の神様から。
日本の神々は基本的には祟り神です。祟るから祀るのです。日照も大雨もやめてください。そうすれば豊作になり、豊作になればお祭りのお供えもたっぷりできます、みたいな。
菅原道真公が死後、内裏に雷を落としたり、政敵を祟り殺したり、疫病を蔓延させたりと祟り放題だったので天神様に祀り上げられたのは有名な話。菅公と同様、三大怨霊の平将門や崇徳上皇も神様に祀り上げられてますね。
祀ると祭りには強い関連性があります。ついでに政(まつりごと)もですが話が広がりすぎるので止めときます。神社に付随する森を鎮守の森と呼ぶことからも、祟りを「鎮め守る」ことが第一義的目的だということがわかります。
神社でいくらお賽銭をはずんだところで、願い事は叶えられません。お鎮まりください、御心安らかにと願うことで災厄から逃れ、結果として平安や幸運に恵まれるのです。
救済が目的のはずの仏様も救ってはくださらない。
蜘蛛の糸のお話がすべてを物語っていると言えばおわかりいただけると思います。でも、親鸞聖人は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」って言ってるよ、悪人でも救ってもらえるのでは?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、これは「善人を装ったり、ひけらかしたりする人より、自分が悪人であることを自覚している人こそが救済の対象」という意味です。
自分が悪人であることを自覚している人なんているのでしょうか。少なくとも私自身は「悪いところがあるのはわかってるけど、おおむね善良な人間」だと思っているので、救済の対象外ですね。
おまけ。56億7千万年後に弥勒菩薩が仏となって生きとし生けるものを救うとされていますが、50億年後ぐらいに太陽が赤色巨星となり地球上の生物は超高温のため死に絶えます。これってある意味、究極の救済なのかも。
まだ続きがあるのだけど、書いてもいいですか?
気を悪くするだなんてとんでもございません…!
むしろコメント頂けて嬉しいです、後は思い込みだとも思っていません。
「お守り」と言う言葉が無意識に出てしまったのは私が心の中で神様の存在を少しでも信じて、一緒にいてくれてる可能性を示唆する事だと思っています。
私自身はともかくとして、確かに他の方を見ていると苦しんでいる方を多く見てきました。
なので何か救いがあっても良いのかな、と人間である私は思いますがナナ様の仰る通り神様のお考えはわからないですね…。
未心に適う行いをする事が人の道。
私では思いつかなかった生きる道でした。
こうして新しい学びを頂ける事に感謝しております。
なので「自論」と卑下する事無く、もっと堂々と発言しても良いのだと思っています。
大学…!
私は高卒なので行ったことはないですが、もしも死んだ後に幽霊になるのではなく輪廻転生があってまた人間として生まれる事があれば通ってみたいですね…!
私自身もナナ様が何事も無く、健やかな日々を過ごせますように。
お気を悪くされていたら
申し訳ありません
お守り
そうですね
神様はいつも一緒においでになります
人の生は
苦しみに満ちているので
神様に祈りたくなります
しかし神意のほどは分かりません
御心に叶う行為をすることは
人の道に沿う行いでもあるかもしれません
Lycorisさんのコメント欄に
自論ばかり御免なさい
今大学に来ています
微妙な気分です…。
何事もなく済みますように
これは…高尚と言う言葉で済ませて良いものではなく、私が一般的に禁忌とされる宗教に関連するお話について恐れ多くも語ってしまった事が原因で、これは私の明確な誤りであり罪だと思っています。
西洋の神話、というとギリシャ神話等が該当するのでしょうか。
その認識を元にお話をさせて頂くのですが、確かにギリシャ神話に出てくる神様は傲慢であったり慈悲に溢れていたり、憎しみや怒りの感情も見えてとても人間臭い。
実際の行いは少し規模がでかすぎる物が多すぎて読み物として楽しんでしまっていますが、人の為に何かを与えてくれた神様でぱっと浮かぶのはやはり人類に火と言う文明を与えてくださったと言われる「プロメテウス」でしょうか。
確かに日本の神様もお供えや生贄を要求していますね…。
少し思考がキリスト寄りになってしまい、頭からそういった考えが抜け落ちてました。
祟りなどそういった事が起こると言う俗に言う「禁足地」と呼ばれている場所が私の身近な所にも存在しています。
なので私ももはや、よくわからなくなってきてしまったのですが、神様が必ずしも人を救済するだけの存在ではない、と当たり前の事がやっと理解出来ました。
何もかもが神様が解決してくれるような世の中だったら、今頃人間はもっと堕落して醜い生き物になっていたかもしれませんね…。
そう考えると、最終的に自分で頑張ると言う事が一番しっくり来ます。
その例えに対する私の解釈はやはり、他の方へのお返事にも使った言葉になってしまうのですがやはりお守りの様な存在なのかなって思います。
と言って思ったのですが、そもそもお守りと言う存在自体が神様の力の一端なわけでそう解釈すると私は神の存在を認めている事になりますね…。
あみ様の祈りや願いとその覚悟。
そしてそれで得ようとしている願いの慎ましさを持つ事が出来る事に少し嫉妬してしまう自分もいますね…!
きっとどちらに賭けた場合でも、オッズが異なる事は無いと思っています。
神様がいると思う人も、いないと思う人もどちらも同様にその思想を人に押し付けなければ自由な物だと思っています。
この世界があまりにも人類が生存するのに適している、と言った面等そういった事からも神様と言う創造主が存在した方が現段階ではこの世の未解明の摂理の説明がしやすいような気がします。
神様がいればサタンもいる、聖書ですね…!
信仰があってもなくても祈っても良いのかもしれないですね…。
私は神様に感謝をした事はありませんが、神をいないと考えて生きている私も何故か時として神に祈る様な時があります。
私にとっての神様はある意味、お守りの様な概念なのかもしれません。
生まれながらに苦しみを抱えていると言ったお釈迦様も、生まれながらに罪人であると言ったエホバもまた厳しいものですね…。
神様について私も一言いいでしょうか。
西洋の神話の神様はとても人間臭いですよね。
なんだか人の願いや祈りを聞くというよりも、自分の欲望のままに動いて気まぐれに人を巻き込んでいくという感じがします。
頼まれたのかどうか知りませんが、勝手に人を花にしたり星座にしたり。
日本の神様はもう少し人間と一線をかくしているけれど、やはり願いを聞くけどその分何かお供えや生贄が必要だったり。
元々実在の人物を神格化した神社も多いし。
明治神宮や神田明神、天神様もそうです。
あと神様は祟ったりもしますね。
結局神にせよ仏にせよ、最終的には自分で頑張りなさいよということなんじゃないかと思います。
その頑張りを後ろで支える(?)のが、あれだけ祈ったのだからという気持ち。
お百度踏んだり、お茶断ちしたり。
もう少し生産性のある例えなら、あれだけ勉強したのだから神様も見ていてくれるはず。という気の持ちよう。
私も神様に祈り、願ったりするけれども、結局最後は自分で責任を負う覚悟でお参りしてます。
あまり即物的なお祈りはせず、日々を恙なく過ごせることを感謝するのがいいのかな。
神様がいないに賭けた場合とでは
オッズが異なると、
プラトンが言ったのでありましょうか。
神様がいる世界の方が
色々な事象の説明も、
つくのかもしれません
しかし、神様がいればサタンもいるはずで
二元論的な世界になりまする。
信仰があってもなくても
時に祈りたい気持ちになったり
時には神様に感謝したい気持ちに
なったりしますね
私たちは生まれながらに苦しみを
抱えていると言ったのはお釈迦さまでした
話が逸れました
ぼ、煩悩を取り払ったAnge様だ…!
そうですね…。
完成した世界等何処にも存在していなくて、この世は全てが得てして不完全なものだと思っています。
神話を語り継ぐことも、見えぬ神を信じる事も、滝に打たれる事も食を断つ事も全てその人が決めた事であって、もしも一般的な人が想像するような神様がいるのであればその様な事を望むのかな。
と思ったりもします。
凄くどうでもいい余談なのですが、イスラム教徒の方は豚肉を食べない事で有名ですが信仰の具合にもよるのですけど「日本まで神様は見て無いから」って言う理由で日本では豚肉を食べる方もいるそうですよ…!
キリストは本当に最も有名で最も信仰されている存在だと思ってます…!
「神なんていない」とAnge様が思っている事を前提に産み出される私なりの回答になってしまうのですが、本当に神様がいるのであれば人を救ってくれるはずなのにって思う事があります。
それこそ、貧しい羊飼いを救った様に。
その聖なる季節もまた、近づいてきましたね…!
私が好きなゲームの台詞なのですが、故郷が雨も降らず砂漠のような地帯で水を得る事すら困難な状況のキャラクターに対して「本当に神様がいるならお前の故郷に雨を降らしてくれるんじゃないのか」の様な事を言うのです。
本当に神がいるのかどうか、いると思えばいるしいないと思えばいないのかもしれない曖昧な物…なのかもしれないですね…。
とりとめに関しては私のコメントも記事も基本的にとりとめもない事なので、謝るような事ではないですよ!
( ´ー`)y-~~
完成した世界などどこにもないからひとは神話を語り継ぎ、見えぬ神を信じてすがり、滝に打たれたり食を断ち、祈るのでしょうね。
わたしは基督の降誕劇のひと幕がとても好きで。
救い主の生誕をいちばん待ちわびていたのは世でもっとも貧しく卑しい職業とされていた羊飼いを生業とするひとたちであり、聖夜にまず初めに天使が舞い降りのは、貧しいがもっとも信仰心の篤い羊飼いたちのもとであったことも尊く。
「あなた方の救い主がきょう生まれた」と告げる天使らに畏れながらもひれ伏し涙する羊飼いたち、っていう場面で、毎年聖なる季節には感慨深くなり、涙がでるのです。
神なんて、居ないってわたしは思います。
ただ、神をもっとも必要とするひとのもとには、きちんと現れているのではないかしら。
とりとめがなくてごめんなさい。
こちらこそ、誤解を生む表現をしてしまい失礼致しました。
それと同時に、「祈る」と「願う」と言う言葉について再度考える機会を頂けた事に感謝しております。
ちなみに喧嘩を売られたとは思っていません、強いて言うのであれば久しぶりに人に釈明をしなければいけない場面が訪れてビックリしただけです…!
今日は天仙玉女碧霞玄君様のおかげで久しぶりに、刺激的で楽しい一日でした。
オリンピックの方に関してのコメントは思いつかないのですが、本日はこの様な私とお話をしてくださりありがとうございます。
「正直な言葉」であって「喧嘩を売る言葉」では無かったと思っています。
確かにありますね。そういう意味も。
納得です。
他人の子だけど、うちの子と呼んでしまうくらいよく知っている子、いや、もう大人だから子と呼ぶのもなんだけど、その子がミラノオリンピックに出られるかどうかの瀬戸際なので「祈る」とか「願う」とか言うと神頼みしか思い浮かばないのです。
失礼いたしました。
まず「願う」と言う言葉は確かに仰る通り、星や神様や他者にお願いをすると言った意味合いもあります。
ただ「願う」と言う言葉には、自分の「心の中で他者の成功を願う」と言う意味合いも含まれている言葉でもあります。
これについては、辞書等にも載っている通りの事なので相違は無いです。
私の文章が拙いばかりに誤解を生んでしまい申し訳ない反面、願うと言う言葉には上記の意味も含まれる以上、矛盾は無いのではないでしょうか。
そして改めて辞書を見てわかったのですが、「祈る」にも同じ様に自身の中で願うと言う「願う」と言う言葉と同様の意味が込められていたので、その点に関しては
「言い換えの理由にならない」と言うよりも、「言い換える必要がなかった」
と言う考えに至りました。
別に喧嘩を売っているわけではありません。
一読して矛盾してるなぁと感じただけです。
願ってますも願う相手や物がありますよね?
星に願いを → 願う対象が星だけど実際は人知を超越した何か=神様みたいなもの
神様お願い → まさに神様に願ってるやん!
この件は君にお願いしたい → 目の前の相手
祈ってますの言い換えとしての願ってますなら3番目は祈るに言い換えできないので関係なく、言い換えたところで神や仏やそれに準ずる不確かなものに願うことになりませんか?
祈る神様がいないことが言い換えの理由ということになりませんよね?
わ、私も上手く説明出来ない部分というかなんというか曖昧な物なので、わりと雑な文章になってしまってたりします…!
神様にお祈りするよりも、願っているって伝える方がなんだか「私」が「貴方」を想っている事が伝わって良いかなってちょっと思ったのです…!
是非一緒に願いましょう…!
でも、「祈ってます」→「願ってます」
これはいいですね^^
今度からこれを使わせて頂きます。