子熊を郊外に定着させる主張を繰り返す日本熊森協会
- カテゴリ:コーデ広場
- 2025/11/12 01:56:21
日本熊森教会は、果樹を狙って熊が里に下りてきたら、果樹を切れと主張
そして 人を襲った親グマを殺すことは、やむを得ないとしてもその数は最小に! 熊を里に呼ぶ人間の行為こそが大問題で改めると、声高に 今もなお叫びス続けています!
のみならず、子熊を殺すな! 動物倫理に反すると!!!
(そもそも倫理とは 当事者が自制すべき内容を規定するものであり、『動物倫理』が存在するなら、それは 動物の方が、間もあるべき規定=人のものを奪うな 人を襲うな 人の物を破壊するな 人の敷地に入るな!』でしょうに!
まともな日本語を使えない集団!その日本語としてすら文法的におかしいことを主張する集団が、あたかも日本を代表するかのように「日本熊森集団」と主張している、なんか 外来の政治的主張を唱える集団みたいな言葉遣い><)
しかし 親グマだけを殺し、子熊を野放しにしたらどうなるか?
里山での暮らしに慣れたクマの生態について、日本ツキノワグマ研究所の米田一彦代表が解説する。 「例えば人里で母グマを駆除すると、子グマは母を見失った地点で母を待ち続けます。しかし、いつまでたっても帰ってこない。すると、自活を始めなければなりません。こうしたクマは、筋金入りの“集落依存型”になり、民家のコメや残飯などを日常的に食べるようになる。そのクマにとっては、そうやってエサを取るのが当たり前で、生きるために必要なことなのです」 ここまでくると、市街地などは目と鼻の先だ。
◇
さらに 「日本熊森集団」が主張する、人と熊の生息地である山との緩衝地帯(人の立ち入らない地域?)を設けるべきだという主張、
これは あまりにも 「自然」の勢い=生物(特に植物~小動物、そして熊へとつながる生態系)を知らない主張である
山奥から市街地に一足で躍り出たわけではない。山と人里の緩衝地帯、すなわち里山に生息する段階がある。 「人が里山の木材資源を利用しなくなり、樹木が切られずに成長した結果、クマの隠れ場所となっています。同時に耕作放棄地も増加し、クマのエサになるような植物が増えたことで、クマが生息できる場所が広がったのです」(石川県立大学の大井徹特任教授)
・自分が 町中で暮らし、たまに里山(市街地を取り巻く山林)に行くだけの人間が、実はそこは こまめに里の人が手入れをしている地域だと築かず「人のいない自然って素敵♡」と喜ぶ感覚で主張している「日本熊森協会」の人間立ち
その里山を手入れしている村の人たちが熊に襲われ、市内に退去し、村の人口が減ると熊がその残った住民たちを襲撃している現実を無視して、「そこに住み続ける人間が悪い、熊の餌(=人間の食料&商品作物等)を置いているのが悪い」と主張し続ける「日本熊森協会」
ソーラーパネルの設置が反対と主張しているが
そもそもソーラーパネルを設置する場所というのは
「手つかずの森林」ではなく「明確な所有者が存在する土地=一帯を手入れして人が生計を立てていた土地(森林も重要な産業資源であり人が手入れし続けてきたもの)」
という厳然たる現実を無視しているのである
所有者が手入れをやめれば、そこは人の縄張りではなくクマの育成地になり、行動範囲の広い熊は そこを拠点に町まで降りてくる(だって 人が使っていた道が残っているのだから)
むしろ ソーラーパネルにした方が、熊が生活拠点にしない=熊の縄張りは町から離れたまま
そういう自明のことを無視して、せっせとクマが人間の町を襲撃するように誘導し続けて20年?30年?それが 日本熊森協会の活動実態である!!
しかも派手に宣伝活動をやり、メディアを味方につけて政治・行政をも動かしつづけた日本熊森協会
彼らの活動&その主張が 今日のクマの氾濫いな熊による人間社会への一斉攻撃 を呼び起こす起爆剤となったといっても過言ではないのではなかろうか?
(うん 外来勢力の「ステルス侵略誘導型&侵略的主張」とそっくりなパターンで、なまじ 「動物愛護」と政治と関係なさそうな顔をしていただけ、日本国民とその生活破壊への威力は巨大なものとなってしまっているね><)
※緑字は
「人里で母グマを駆除すると、子グマが“集落依存型”に…」 クマによる人身事故大量発生の理由とは(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/984ff6a9dd593a2a40798ba1d513313c1dcc97b9?page=2
11/1(土) 6:06配信 より抜粋
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この記事は まっとうな 科学的知見を平易に 日常生活と結び付けて論じた記事であり、どんな側にも偏向してませんので一読おすすめです
(私は単に
「政治的偏向団体であまりにも悪しき影響力を持ちすぎた日本熊森協会」
の非を示すために 記事の一部を引用させていただきましたが
上記の記事は政治とは無関係な現実対応に関する話です)
※動物愛護を主張する皆さん、
耕作地を荒らす鹿を殺すな・イノシシを殺すなという主張そのものが、
日本国民に食料自給をやめろ!
日本人が棲む場所を 野生動物に明け渡せ!
イノシシを増やして熊の植物性食料を奪い、鹿を増やして熊の肉食化を促進していること、
すなわち、「自然を守る=人間による営農・山林の管理をやめろ」と主張することが、野生動物の縄張りを人間の居住地にまで広げることにつながっていること
その結果が 今 であると わかってますか?
あなたたちが主張する 「自然環境を守れ」は、「人間は街中の外で暮らすな」と実質的に言っていることと同じ、
だって 人と野生動物との境界線で暮らすことは、侵入してくる野生動物の駆除なしには成立しないのだから!
そして 今や 町の住民を守る為に、 郊外に住む農家が電気柵等をめぐらす必要が出てきた。
=電力消費量の増大、電線を作るためには大量の火力が必要!
つまりCO2の排出を増やし 鉱山採掘を増やす等、
その環境へのダメージは、熊やイノシシを駆除するよりもはるかに大きいとわかってますか?
・野生動物の駆除に反対し、ペットの命を守るのは飼い主である人間の責任だが、人間が野生動物に襲われても、野生動物の縄張りに入った人間が悪いとしか言わない皆さん!
では あなたたちが 人間と野生動物の生活圏の境界線で居住し、そこで営農して下さい
そして 山で熊に襲われても無抵抗でしかたがないとあきらめつつ、山林の手入れをして 住宅用の材木を確保して、私たちに供給してください。
あなたたちが唱える動物愛護の実態は、自分は手を汚さずに
「文化的生活を営むに必要な物品の すべての生産活動に従事している人間は、手を汚す仕事をしているから死んでも構わないし、
あなたの生活必需品を作ってくれる人たちは、汚い手段を使っていると非難=蔑ずむ」
という究極の差別をやっている、そういうことです!
「命をいつくしみ 大切にする」それは良いことです
その一方で、人間社会を形成するうえで必要なこと=「命との対峙」を、職業とする人間をもいつくしみ 大切にするようにというのが、原始仏教の経典で書かれています
釈迦の言葉を拡大解釈した坊主どものたわごとと同じことを言っているのが
現代の愛護家・各種運動員と言ってもよいでしょう
























https://news.yahoo.co.jp/articles/4677bf05f0fc2e704028de581af7df9badc18d05
11/11(火) 19:35配信 仙台放送
11月11日朝、宮城県名取市の仙台高等専門学校の敷地内でクマが目撃され、学校は11日を臨時休校としました。
記者リポート
「クマはこちらの崖を勢いよく降りてきて、体育館のそばを駆け抜けていきました」
仙台高等専門学校によりますと、11日午前6時半ごろ、名取キャンパスの体育館の近くで斜面を降りてくるクマを巡回中の警務員が目撃しました。
クマは体長70センチメートルほどの子グマと見られ、北側に走り去っていったということです。
敷地内でのクマの目撃を受け、学校は11日を臨時休校とし、11月12日から14日までも生徒の登校を禁止してオンライン授業などを実施するということです。
仙台高等専門学校 伊藤昌彦副校長
「いつまで終わりになるかが、なかなかクマの場合には分からないが、状況を見ながら遠隔授業で学びの機会をなくさないようにできればと考えている」
学校はキャンパス内にある寮で生活を送る学生にも不要不急の外出を控えるよう呼びかけていて、保護者の付き添いがあれば自宅に戻ることもできるということです
◇ ◇
コロナ封鎖の経験がこんなところで活かされているのかな?
それはともかく 高専というのは、寮と校舎が並んで立っているから、その校庭が熊の通り道になるということは 家の庭が熊の生活の場になったということに等しいのです
それでも 子熊のために 学生たちが教育を受ける権利も運動して健康を保つ生活も奪われて
際限なく我慢を強いられる これが人権侵害 児童生徒虐待に他ならないのですが
麻酔銃なり猟銃で仕留めることを許ささない 日本熊森協会 この落とし前どうしてくれるの?
早く 子熊をひきとりに来るか、高専の教師と生徒たちに快適な学習環境と生活場所を直ちに提供しなさいよ!
それをしないあんたたちは 他人や未成年を熊の餌にすることに積極的に加担しているってことだからね!
どこまで根性ぐさった性悪なんだ 熊森協会の人間とその会員たちは!
子供たちを虐待する活動に資金提供する人間達め
その校庭をクマが横切るのは防ぐ必要がない
人間が熊の気をひかないように=熊が自由に校庭を往来できるように、人間が考えて行動すべきと主張している「先生」には驚いた (記事のアドレスは忘れた)
熊が出没しだしたのは昨今のこと、その100年も前から学校が立っていたのに。
人間の生活圏を 熊に差し出せと主張している「研究者」
熊に襲われるのは、人間が熊の気を引いたからだと主張するに等しい「研究者」の言葉にあきれた。
その研究者の言葉に従えば、熊を車に置き換えて考えると、交差点に信号機は必要ないということになる
だって車(熊)が交差点(校庭)を渡る自由は大切にしても増らなければいけない
交通事故(熊による人への加害行為)が起きるのは、交差点(校庭)に人がいたり
運転手(熊)のわき見運転を誘った人間がの自業自得
と言っているに等しいのだから
人と人との関係なら 信号機を設置して 交通ルールを守って互いの命を守る
人と熊との関係なら
人間の縄張りに入らないように熊をしつける、必要なら屠殺する、
(野生動物はそうやって縄張りを守ることにより互いの共存を図る、縄張りを犯せば相手が引くまで戦う)
それが 自然の摂理だろうに!
・「命の選別はしない!野生動物を守れ」と主張する自称動物愛護かとは
「野生動物の命を守るために 自分以外の人間の命を犠牲にする」という 命の選別を無意識にやっていることを認めない 自己欺瞞の権化。
これは 自分の考えに従わないものには無条件で排除というファシストと共通する傲慢さでもある
本来 害獣駆除とは 生存権の一部である
それを法で禁じ その一方で害獣の生態管理・頭数管理を怠り 放棄してきた
日本の行政・法律を偏向団体の主張に従って改悪し続けてきた国会議員たちの責任を問う
さらに そのような改悪をはやし立てることにより促進してきた日本の報道界の罪も問いたい
・日本の誤った法制度と行政が 現在の 熊の氾濫につながったのであるから
その被害者(身体を傷つけられた者 命を奪われた方の遺族 農産物被害を受けた生産者)への補償は
国税で賄うべきであると考える
法の改悪を阻止できなかった、そのような国会議員選出した責任は すべての有権者、ひいては日本国民全体にあるから
しかし 問題が明らかになった今は 速やかに(3年をめどに)問題解決に当たるのは
当該地区の住民であり地方行政の責任であるから、だらだらと補助金を求め続けることなく
今は 全力で国政が地元を支援するが、3年後には かなりの部分を地元負担で解決できるようにめどが立つことを望む。
逆に3年もたてば 地元だけではできない部分が明白になるだろうから
それを補う対策を考えるのも 国政の務めである。
地方からの「くれくれ」の集(たか)り体質にはうんざりだが
支援すべきことは しっかりと速やかに集中的におこなう、それが国政の責務である。
そのための国税(納税)なんだから。
・まじめな話 ヒグマにより いくらの取れ高が減ったという話を聞かないのが不思議だ
採卵場所が 熊に襲われていなくてよかったというべきか・・
ただ 報じられていないだけかどっちだろう?
ヒグマにとったら 鮭や魚卵よりも 人間の食い物の方がうまいのか?
それとも 北海道は広いから たまたま放浪ヒグマが、いくら採取場に気が付かなかっただけなのかな?
むしろ 人が住まない土地ですら、そのふもとに住む人間が暮らしやすいように、水源の管理をしたり
樹木が育つように下草狩りをしたり、人間の住処を荒らしに来ないように 適度に獣を間引いたりして
その「自然」を管理・調整して共存してきたのが 日本人の暮らしです
何でもかんでも「殺すな なされるがままに人間が食われ 耕作地を放棄し続ければいい」なんて
偏った主張をしている動物愛護家なんて
ステルス洗脳による日本侵略をめざす 反社集団の主張そのものです
きちんと 自分の今の暮らしがいかに成り立っているかを考え
自分が必要とする生活必需品を作ってくれている人たちの職業生活の基盤を守り
自分が消費する者を生産してくれる人たちの生活を守ってこそ
人と人とが共存する社会になるのでは?
他人に犠牲を強いて 己の主張のみを通そうとするのは 「侵略者」の行為です
もちろん 野良猫に餌をやったことは1度もありません。
しかし それは 街中の住人なればこそできること。
生産農家が 害虫・害鳥を避け、必要に応じて駆除する必要もある
郊外・里山に住む人においては 害獣駆除なくしては生活が成り立たない
それが自明のことであるのは 少し考えるか 己で実践してみればわかることです
にもかかわらず そういう現実を認めず
その一方で 自分がその苦労(試行錯誤)を背負うことをせず
金の力で 他人の生活圏でちょこっと何かをして 「いいことしました! 正義です」と喧伝する
その結果には目もくれない。 己の主張に不都合なことは 黙殺
その地に住む人が 世代を重ねる中で積み重ねてきた「英知」は自分たちの主張と会わないからと完全否定
それを偏向と言わずしてなんという?
◇
「ゼロ(自分たちの主張意外は完全否定)か1(己の主張)か」
「己の主張を認めない人間は すべて間違っている=敵」
と考える人間集団=運動団体
そのもの達の主張を 喧伝することにより 己が正義だと証明して見せた気になっていた
全国紙とその系列のTV局 そしてそこに出演・登場していた「芸能人・タレント・コメンテーター」達
これぞ ステレス洗脳 による 侵略行為 そのものではないか!
◇
愛護:いつくしむこと 守ること
それは 己の責任で 己ができる範疇 で行うべきことです
けっして 他者に強制してやらせることではなりません
(それは 原始仏教と呼ばれる 初期の経典を読めば 書いてあります)
一方で 「食うか食われるか」の生存競争があり
他方で「同族が固まって 外的から身を守る」
「二種族が相互利益を与えあって共存する」
「ヒエラルキーの頂点に立って 己が必要とする分だけ捕食する
多種を食いすぎたら、えさ不足で自滅する」という自然の摂理があります
・人間と害獣との関係は?
人間が 熊・イノシシ・鹿などの動物を食料とみなさなければ 本来共存の必要はないのです
人間の縄張りにはいってこなければ 勝手にいてきていてね、
ただそれだけです。
しかし そもそも 日本の国土に 手つかずの「自然」なんて存在しないでしょう。
富士山頂に鳥居が立ち、樹海にも 人が通っている。 よくよく調べれば居住跡があったりもする
反対意見を認めず 心からの賛同を示さないと 人格を否定されると。
政治的主張を「学校教育」の場に持ち込めば 必然的にそういう結果になります
その結果 「一つの主張のみが正しい」「それに反するものはすべて悪」という極端な思考しかできない人間が育つ
その偏向教育を主導した教師に率いられた当時の中学生たちが大人になって作った団体、それが日本熊森協会
「命を守る」「命を育む」そのことは 悪いことではない。
では 「命の選別をしてはいけない」という主張は妥当か?
私は 子供のころから イデオロギーをたっぷりと聞かせれて育ってきました。
だから 小1の「朝顔の観察」においてすら、雑草を抜くことをしませんでした。
だって 朝顔を育てるために雑草を抜くことは 命の選別に他ならないから。
その一方で キャベツ畑の上一帯を蝶が舞い続け 卵が付いたキャベツの葉が穴だらけになって青虫がうごめいているのを見て、そんな穴だらけの葉っぱのキャベツを食べるのは嫌だなと思いました。
農薬を使わない時代は 青虫を手でとり、青虫はまとめてくべる(焚火に入れる)しかない。
それを嫌った祖父のつくるキャベツは 穴だらけ
自家栽培だから仕方がないか 無農薬の帰結はここにくるのかと 考えながら青虫のことを考えないようにして キャベツ炒めを食べました
(生食は気持ち悪くてできなかった。だって 穴だけでなく糞ももれなくついてくるわけだから><)
大人になってガーデニングを始めた時は、雑草に負けないハーブと在来種の花の種をまき
自力で植物同士で勢力争いをしてもらうことにしました。
庭の果樹にも殺虫在を使わないから、成長が遅く 何度か丸坊主になりながらも10年~15年たてばたくましく育って豊作続きに。
これ、趣味なら可能だけど、生産農家としては 採算が取れないから実行不可能な手法だと実感しました
もちろん 果樹農家さんが 出荷調整のために、畑の一部を近隣の人間に「果実狩り」の開放農園をやっているところにもよくお邪魔して その栽培や経営についても伺ってましたのでその御苦労と工夫は存じてます
街中に住んでいればこそ、野良猫とも共存(昼寝しに来るだけの野良猫と仲良くなって、私にとって不都合な行為をする野良猫の排除は昼寝猫に任す