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幻燈の母

母は、笑っていた。
私が誰かも分からぬまま、ただ、真っ白な虚空を指さして、
「きれいね」と、言った。
その顔は、私が幼い頃に見た、陽だまりのような優しい顔だった。
皮肉なものだ。
私のすべてを知っていたはずのその頭脳が、
私を殺した記憶から、静かに、優雅に、逃亡している。
夜になれば、母の身体の中で、
癌という名の、貪欲な悪魔が宴をひろげている。
細胞を喰らい、私を呼ぶ声を奪い、
それでも、母は私に「お腹は空いていないか」と、
自分の腹が裂けていることも知らずに、尋ねる。
ああ、恥ずかしい。
私は、この世で最も醜い、子供だ。
母の崩れゆく姿を見ながら、
その、薄れゆく記憶の帳(とばり)に、
どこか、ホッとしている自分がいる。
「もう、私を叱らなくていいんだ」と。
春の嵐のような、母の狂気。
冬の海のような、母の静寂。
癌の痛みに歪む顔が、ふと、少女のように幼くなる。
私は、その手を握り、
「もういいよ」と、心の中で呟く。
「もう、何も、覚えていなくていい」
死は、悲しいものではなかった。
それは、母にとって、記憶の牢獄からの解放であり、
私の、甘えの終焉であった。
ただ、冷たくなった母の手は、
あの日、私を抱きしめた、温かい記憶そのもので、
私は、その手を握りしめ、
大声で、泣きたかった。
ただ、一度だけ。
最期の瞬間に、母は、正気に戻った。
「馬鹿な子」と、私の頬を、薄く笑って、
そして、綺麗に、消えた。

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