Nicotto Town ニコッとタウン

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あるいは白昼夢

お母さん、あなたはもう、私を「誰かさん」と呼ぶことさえ忘れてしまいましたね。
認知症などという、ハイカラでいて残酷な名前の付いた霧が、あなたの頭の中に立ち込めて、
そこにはもう、私の幼い頃の記憶も、父の不器用な笑顔も、一欠片も残ってはいないのでした。
癌という奴は、あなたの体を少しずつ、丁寧に、まるで出来の悪い細工を壊すように蝕んでいきました。
あなたは痛みの中で、ふっと、あどけない少女のような顔をして笑う。
それは、道端に落ちている硝子の破片が、夕日に当たって一瞬だけ光るような、
あやうくて、胸のつぶれるような美しさでした。
「どちら様でしたっけ。お綺麗なお花を、ありがとう」
そう言って、私の顔を見つめるあなたの瞳は、あまりに透き通っていて、
私は自分の罪深さを突きつけられたような、妙な居心地の悪さを感じるのです。
あなたは、苦しみも、悲しみも、そして私という存在さえも、
すべて「忘却」という名の真っ白い雪の下に埋めて、一人で旅立とうとしていた。
ああ、幸福な人は、幸福のままで死ななければいけない。
あなたは、地上のあらゆるしがらみから解き放たれ、
ただ、一輪の野菊のように萎れていった。
「お母さん」
呼んでみても、返ってくるのは夏の終わりの、所在ない風の音ばかり。
私は、あなたに忘れられたこの世界で、
あなたの思い出だけを頼りに、生きていかなければならないようです。
それはまるで、宛先のない手紙を書き続けるような、滑稽で、救いのない作業ではありませんか。
お母さん。
あなたは、お亡くなりになって、ようやく「お母さん」という役割からも自由になれたのですね。
おめでとう。そして、さようなら。
私は、もうしばらく、この薄汚れた地上で、
あなたの忘れていった悲しみと一緒に、生きてみることにします。

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