難しく考えなくても良いと言えばそうだが悩ましい①
- カテゴリ:日記
- 2026/06/04 02:40:33
やたら長い日記なので、2分割。
お暇ではない方は、読まんでも良いかと。。。
そういえば、太ったよという話を前回の日記に書いたのだけど、増加したと思われる1㎏は解消しないとなと思い、とりあえず食事は少し節制して、この4,5日で200~300gくらい落とした。なので、まあ今月末には1㎏くらいは落ちてるかな~、と。。。 そこに戻せば、±500g程度の増減はあんまり気にしないことにする。
閑話休題
さて、先日の土曜日に藝大の美術館で開催されていた、NHK教育の日曜美術館の回顧展を観に行った話を、これまた前回の日記に書いたけど、翌日の日曜日、今度は空山基の展覧会を観に行った。
まったくそんなものに行くつもりはなかったのだが、タダで行けることになったので、水泳のトレーニングが15時ごろに終わってから、えっちらおっちら東京駅まで。
空山基といわれてもピンとこない方も、これを見れば「ああ、なんか見たことあるかも」と思い出す方もいるかな。
https://sorayama2026.jp/
https://sorayama2026.jp/
彼が表舞台に出てきたのは、1980年前後。
時代に与えた影響を、わたしは否定するつもりは微塵もない。絶大な影響があったであろうと思う。
ただ。
その時代において有意であったものの評価が、時代を経てもその評価自体はすたれはせずとも、それそのものが現代においての同時代性を持ちうるかどうか。残念ながら、反復的に改めていま意味を問う、という切り口は提供できても、そこまでということが多分にしてある。アンディ・ウォーホールだって、キース・へリングだって、ジャスパー・ジョーンズだって、ナム・ジュン・パイクだって、みんなその文脈から逃れることは出来ない。ポップカルチャーとかサブカルチャーというものは、そう言うものだ。というか、そういう仇花的な要素を包含するものであるからこそ、サブカルチャーはサブカルチャー足り得るとも言える。
だからこそ、昔の名前で出ていますは、ポップカルチャーにとってはあまり褒められたものではない、と私は思う。
一方で、表現の内実ではなく、その作品のカッコよさや美しさという、目に見える表層の表現そのものがすたれるものではない。時代感からは逃れられなくとも、時代性などとは無関係だ。美とは、不変であり絶対。だから、過去の再生産としての「昔の名前で出ています」にも、意味はある。私が敬愛する、いまは亡きジェフ・ベックの1960年代の楽曲が無効か?そんなわけがない、今も昔もこれからも、唯一無二で最高にカッコいいに決まっている。
しかし、そのことに制作者自身が自覚的でないとなると、話はいきなりみすぼらしいことになる。
空山基の本意がどうであるのか、私はもちろん知らない。
知らないし、そんな子供でもわかるような話など当人だって自覚的さ、と私は思いたい。思いたいが、彼のインタビューとかを読むにつけ「・・・・・」という気になることも事実。今も自分は時代の中にいる、俺かっけえ的な鼻持ちならない匂いを、多かれ少なかれ感じてしまう。
いや、確かに新しい作品作りや新しい活動には積極的に取り組んでいる。そして実際のところ、それなりに世間の表舞台で取り上げられている。名の知れたミュージシャンやアーティスト、アパレルブランドなどとのコラボレーションは続いている。別にそれが失敗しているとも思わない。なぜなら、先ほど書いた通り「その作品のカッコよさや美しさという、目に見える表層の表現そのものがすたれるものではない」から。そして、良くも悪くも空山基の作品は1980年代の時代感を背負っているからこそ、あえて今さら新しい、という切り口が有効でもある。
だが、結局のところ、ブラッシュアップはあれども本質的に空山作品は過去の再生産か、コレボレーションの大元があってこそのものであって、そういう意味に於いて、空山基の賞味期限はとっくに切れている、と私は思う。いやさっきお前「その作品のカッコよさや美しさという、目に見える表層の表現そのものがすたれるものではない」って言ったじゃん、という突っ込みが入りそうだが、そうじゃない。その後で、制作者自身が自覚的ならね、と書いたでしょう。
難しいのは、私が言っていることには実は変なコンフリクトがある、ということ。
そんな小理屈はともかく、カッコイイなら良いんじゃね?という、まさに「その作品のカッコよさや美しさという、目に見える表層の表現そのものがすたれるものではない」という肯定と、作者自身への共感性のなさ、という別レイヤーが混在した歪んだコンフリクトがある。そしてそのコンフリクトは、空山基という人が登場した脚光を浴びた時代をリアルタイムで生きていて(といってもスタートは小学生の高学年くらいからだけど)、これまでの経緯を知っていて、そして妥当な内容かどうかの評価はともかく、こんな文章を書けてしまう背景を持ってしまっている私であるが故のコンフリクトであって、いまここで書いていることは、限定的な前提条件の上に立たないと、あんまり意味がないであろうことも理解はしている。嫌そんな話は知らないし、空山基って初めて見たけどカッケー、と言っている層には、私がグダグダと書いているこの文章は、合っている間違っているではなく、意味がない。
それでも一つ、留意して欲しいと思うこともある。
一周回って、いま空山がカッコイイ。確かにそうかもしれない。
細けぇことはどうでも良いけど、カッコいいから良くね?確かにそうかもしれない。
そして、若い世代には空山は新しいんだよ。確かにそうかもしれない。
だが、ちょっと待って欲しい。
例えば。
レコードが若い連中に、一部の層とは言え人気がある。
カセットテープも然り。昔のカセット音源なんて、有名ミュージシャンだったりすると、目を疑うような金額で取引がされている。20年前なら、ただのゴミだったのに。
その価値意識の細かい話をここで言及しても仕方がないが、明確に言えることは、レコードもカセットテープも、我々にとってはノスタルジーかもしれないが、若い彼らにとっては、それは見たこともないニューメディアなんだ、ということ。それは分かる。もちろん。リアルタイムでレコードを知らない世代にとって、それは確実に新しい体験であって、それに反応する感性自体はリアルで間違いのないものだとは思う。
じゃあ、その文脈で空山作品を語っても良いのか、と。
それは違うと思う。
~次の日記に続く~


























