Nicotto Town ニコッとタウン

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独白:熱帯夜 2


「おい、まだそんな暗がりで、消えそうな煙草を燻らせているのかい」
弾けたような声が、部屋の澱んだ空気を切り裂いた。
入ってきたのは、この街には不釣り合いなほどまっすぐな目をした若者だ。
シャツの袖をまくり、額の汗を拭いもせず、そいつは俺の前に立ち塞がった。
「あんたが何を諦めたのかは知らない。だけど、俺はあの人を信じる。
約束したんだ。この暑さが終わるまでに、必ずここで落ち合おうって。
あの人が嘘をつくはずがない」
俺はグラスの底に溜まった、ぬるい水を揺らした。
若者の言葉は、あまりに眩しくて、胃の腑が焼けるように熱くなる。
「信じる、か。いい響きだな、若いの。
だが、その『約束』ってやつの賞味期限は、この部屋の氷より短いぜ。
この街の奴らはな、お前が背中を向けた瞬間に、お前の名前さえ忘れる。
いや、忘れたふりをして、お前のポケットを漁るのさ」
「あんたは汚れた人間ばかり見てきたから、そう思うんだ!
世界には、命をかけても守るべき信頼ってものがある。
俺は自分を信じているし、だからこそ、あの人のことも信じられるんだ」
若者は拳を握りしめ、俺の乾いた目を真っ向から見据えてくる。
自分を信じる。
その言葉が、俺の耳の奥で、嫌な音を立てて響いた。
「自分を信じる、か。それが一番の罠さ。
お前は明日、激しい空腹に襲われても、その綺麗なセリフを吐けるか?
裏切られるのが怖いんじゃない。
自分が、自分を裏切る瞬間に気づくのが、一番恐ろしいのさ。
誰もあてにするな。自分さえもな。そうすりゃ、誰も傷つかずに済む」
「……可哀想な人だ」
若者は静かに首を振った。その目には、怒りではなく、憐れみが浮かんでいた。
「あんたは傷つかない代わりに、もう何も感じられないんだ。
俺は騙されたって構わない。信じて、裏切られて、血を流した方がマシだ。
何も信じずに、ただ息をしているだけの死人になるよりは」
若者はそれだけ言うと、乱暴にドアを閉めて出て行った。
足音が遠ざかり、部屋にはまた、ブリキの時計の音だけが戻ってくる。
「死人、か……。上手いことを言う」
俺は消えかかった煙草の灰を、灰皿に落とした。
指先は少しも震えていない。
だが、胸の奥の空白が、先ほどよりも少しだけ広くなったような気がした。

若者が乱暴に閉めていったドアの残響が、まだ耳の奥に残っていた。
俺はブリキの時計をポケットに押し込み、ぬるい部屋を出た。
歩道に這い出た瞬間、夜気という名の熱泥が全身にまとわりつく。
街灯の放つ鈍い光の向こう、路地裏のコンクリートに、見覚えのある白いシャツが倒れていた。

先ほどの若者だ。
衣服は引き裂かれ、額からは赤黒い血が流れている。
その視線の先、暗がりの向こうへ逃げ去っていく影があった。若者が命をかけて信じると言った「あの人」の、見慣れた後ろ姿だ。
俺は足音を立てずに若者の傍らへ歩み寄り、見下ろした。
「……だから、言ったろう」
俺の声は、この夜の空気よりも冷たかった。
若者は荒い息を吐きながら、血に汚れた顔を歪めて俺を見上げた。その目には、信じていたものを引きちぎられた者の、深い絶望が張り付いている。
「あ、あの人は……俺を、騙して……」
若者の声が震える。拳を握りしめようとするが、その指先にはもう、さっきの力強さは残っていない。
「この街じゃあ、信じるって言葉は『どうぞ剥ぎ取ってください』という合図に過ぎない。そいつが他人であれ、自分であれな」
俺は身を屈め、若者の視線と同じ高さに目を合わせた。
救いの手は差し伸べない。そんなものは、この男のプライドをさらに傷つけるだけだ。
「どうする、若いの。まだ死人の方がマシだと言い張るか?
裏切られて流す血は、想像よりもずいぶんと熱くて、惨めなもんだろ」
若者は奥歯を噛み締め、悔し涙と血の混じった顔を背けた。
その姿を見ながら、俺の胸の奥で、古い傷口がじわじわと痛むような錯覚を覚えた。かつて、自分自身に裏切られ、同じように泥水をすすった夜の記憶だ。
「……立てよ」
俺はそれだけ言うと、若者に背を向けた。
あてにするな。俺の手も、お前自身の足も、明日の天気さえも。
ただ、この灼熱の夜を生き延びることだけが、俺に残された唯一の現実だ。_

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