『くらやみの速さはどれくらい』読了
- カテゴリ:小説/詩
- 2010/01/05 23:40:23
エリザベス・ムーン/小尾芙佐訳の同書を読んで、感想というよりは、メモ。
同書とダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』の内容にふれています。
考えるだにしんどくて、すこしづつ、チビチビ読んでいたけれど、やっと読み終えた。
いわゆる「障害」を「治療」することは、正しいのか?
(「いわゆる」をつけたのは山ほど語弊があるから。状況は様々あるだろう。作中では、自力で生活し、社会と関わっていくことは可能だ)
テーマが現実的・実際的であまりにも重い。
作中のクレンショウのような無思慮な人間がそうそう人の上に立つことができるものか? と思ったものの、考えてみれば結構現実にも存在しているか。
登場するクレンショウにせよ、ドンにせよ、「当然自分が得られるはず(だと信じている)のものが得られないのは、誰か別の奴のせい」と考える類の人間である(で、実は別にその当人に何の権利があるわけでもなく、恨みに思う対象に責任はない)
このテの人間が、他者に対しほんとうに酷いことをする。
なんせ、悪いのは相手で自分は正義なのだから。
でもってそういう人間が増えているように感じる(ネット等で目にしたりね)。
余裕のない世の中になってきているからか?
自分の不満・不遇を他者におしつけて排撃しても、自分の状況はかわらない、そんなせせこましい鬱憤晴らしに何の意味があるんだろう。
しかしこの話にしても、比べ評される『アルジャーノンに花束を』にしても、『読者を感動の涙に包んだ』みたいな煽り文句は見当違いなのじゃないかと。
いや、『アルジャーノン~』には涙でたけど。
TV番組で『アルジャーノンに花束を』を取り上げたときのこと。
知能が向上した主人公が、考えが周囲に通じないことが理解出来ない点について、彼が「いい気になっていた」からであるように紹介した。
違うだろ。
軽視や悪意はなくとも、相手に理解が出来ないのだとわからないほどの断絶があり得るという話じゃないのか。
その厳然たる事実を知った上で、主人公の知能は低下し、周囲の理解の世界から隔絶される。
そういう恐ろしく寒い話だ。
それでも「笑っていようと思います。笑っていると友達が出来るから(大意、正確じゃないです)」みたいな言葉がある、その勁さ、想いに涙が出るんだろうに。
……なんぞと思ったが、読んだのは中編版の方だけ、それもずいぶん昔のことなので、自信がなくなったw
印象の残り方の問題ってのもあるし、別の話を引き比べて考えてたから混じってる可能性もあるか?
生きるのに困難がある場合、療育は欠かせず、重要なのだが。
その辺がややご都合じゃ? と思ったものの、別の力点でお薦め――というより「必要とする人がいる本」、木地雅映子『悦楽の園』の感想を書こう、と思ったり。
やはり重くて、書きづらくて、置いたままになってるので。
同じ作者の〈マイナークラブハウス〉の三巻目を読んでないな~とか(天野くんはケアなく「生き延びた」タイプだろうが、本当に、なんとか助けてあげてくれ、と思う)
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』も未読のままだ。
『光とともに』も、何巻まで買ったかわからなくなって最新刊に追いついてない。
……片付けなきゃな~