Nicotto Town


おさかな日記


ラカン概説(前編)

 初めに


 ジャック・ラカンという精神分析家がいた。ラカンは何者かというと、精神分析を発展させた人というべきだろうか。ラカンの理論を支持する人のことを、ラカニアンという。

 精神分析には反証可能性がないから、精神分析は科学じゃない。僕は、精神分析が正しいと言いたいんじゃなくて、精神分析を信じているだけだ。

 ラカンの理論は難しいから、僕は、ラカンの理論を正しく理解している自信がない。僕が間違ったことを書いていたら、教えてほしい。ラカンの理論が難しいのは、ラカンが独自の用語やよく分からない図を使ったからだ。逆に、独自の用語や図について説明を加えれば、ラカンの理論は、分かりやすくなるはずだ。でも、難しいことを簡単にするということは、高次元の図形を低次元の空間に投影するようなものだから、分かりやすくなる代わりに、正確じゃなくなるという代償を負う。

 ラカンは、ジークムント・フロイトとフェルディナン・ド・ソシュールの影響を受けているから、ラカンの理論を理解するためには、フロイトとソシュールの理論を理解する必要がある。

 (1)無意識・エディプス・欲動

 フロイトは、欲望でできている無意識のことを、イド、若しくはエスと呼ぶ。一方、理性のことを超自我と呼ぶ。エスと超自我の要求を調整するのは自我である。

 幼い少年は、みんな父親を殺して、母親と結婚したがっている。これは、「少年が父親と敵対して、母親と仲良くする」という意味である。この感情を、エディプス・コンプレックスという。

 人には、欲動があって、欲動には、生の欲動と死の欲動がある。生の欲動とは、生へ向かう力のことだ。一方、死の欲動とは、死へ向かう力のことだ。死の欲動がひとに向かうことはサディズムで、自分に向かうことはマゾヒズムである。

 (2)シニフィアンとシニフィエ

 ソシュールは、既に存在したものに人が名前をつけたんじゃなくて、ものに名前をつけたから、ものが存在すると考える。私達は直感的に、まず概念があって、次に、人が概念に名前をつけたと思ってしまうけど、そうじゃない。例えば、日本語では兄と弟を区別するけど、英語では、兄と弟を区別せずに、両方ともbrotherという。僕は、兄と弟を区別しないのは不便だろうと思うけど、英語話者にとっては、不便じゃないらしい。つまり、年上の兄弟のことを兄と名づけるから、兄という概念が存在する。逆に、年上の兄弟に何も名前をつけなかったら、兄という概念は存在しない。概念に名前をつけることは、物事を分節化することだ。そして、概念の分け方は、文化によって異なる。

 意味を表す、空気の振動やインクの染みなどのことを、シニフィアンという。一方、シニフィアンが表す意味のことを、シニフィエという。犬のことを、日本語では「イヌ」、英語では「dog」と呼ぶけど、犬のことを「イヌ」と呼ぶ必然性はないし、「dog」と呼ぶ必然性もない。シニフィアンとシニフィエは、たまたま結びついている。

 (3)現実界・象徴界・想像界

 物事には、3つの部分がある。現実界・象徴界・想像界の3つである。現実界とは、触れられない部分のことだ。象徴界とは、精神分析を使えば触れられる部分のことだ。想像界とは、意識的に触れられる部分のことだ。

 人は、物に直接触れられない。確かに、私達は物事を見たり聞いたりしているけど、この文章における「触れる」という言葉は、「感じる」という意味だけじゃなくて、「相違点のある物をくくったり、共通点のある物を分類したりして認識する」という意味である。人は、言語によって物を認識する。りんごを見て、りんごだと思った瞬間、りんごは言葉にまみれている。つまり、人と物の間には、必ず言語が介在する。だから、人は物に直接触れられないと言える。現実界は、カントが言う物自体と同じものだ。

 象徴界は、(大文字の)他者、言語、無意識や父の名など、様々な言葉で表せる。父の名については、後で述べる。言語は、ひとから教わったものだから、他者である。ラカンは、無意識は言語によって構造化されていると言った。また、ラカンは記号とシニフィアンを区別する。記号は、その記号だけで表す概念が決まっている。一方、シニフィアンは他のシニフィアンとの関係性によって表すシニフィエが決まる。「無意識は言語によって構造化されている」とは、「無意識は、シニフィアンが関連し合ったもので成り立っている」という意味である。

 (4)鏡像段階と父の名

 生まれたての赤ん坊には、まだアイデンティティがない。例えば、自分の手や口などを同じ自分の一部だと認識できないし、自分と母親を違う人間だと認識できない。この時、赤ん坊は現実界にいる。赤ん坊は、鏡を見て、ひとに「鏡に映っているのは君だ」と言ってもらうことによって、アイデンティティを手に入れる。でも、鏡に映った自分は、本当の自分じゃない。鏡に映った自分を自分だと思うのは思い込みである。思い込めるようになることは、想像界に入ることだ。この段階が鏡像段階である。

 赤ん坊にはファルスがある。ファルスとは、能力の象徴である。つまり、赤ん坊は泣けば親が母乳を飲ませてくれたり、おむつを替えてくれたりするから、自分は何でもできると思っている。赤ん坊は、本当は親が何でもしてくれていることを知らないから、何でもできると思っているわけだ。赤ん坊は、母親が自分を欲しがっていることを願う。だけど、実際には母親は父親のファルスを欲しがっている。そこで、赤ん坊は父親を殺して、母親と結婚したがる。この話は、ラカンによるエディプス・コンプレックスの解釈である。

 ところが、母親と子供の間には、父の名が割り込む。父の名とは、例えば「碇ゲンドウ」のような具体的な父親の名前のことじゃなくて、父親が母親と子供の結婚を禁止することだ。父の名は、子供を去勢する。去勢とは、ファルスを傷つける、つまり、子供をできないことがある状態にすることだ。去勢された赤ん坊は、言語を獲得する。だから、言葉を正常に話せる人は、去勢されたことが、言葉を正常に話せない人は、去勢されなかったことが分かる。言語を獲得することは、象徴界に入ることだ。赤ん坊が現実界から追い出され、象徴界に引きずり込まれることを、疎外という。

 人は、去勢されて言語を手に入れる時、まず、ララングを手に入れる。ララングとは、自分というシニフィエを表すシニフィアンのことで、〈一者〉のシニフィアンともいう。ララングは、1つしかない。だけど、シニフィアンは他のシニフィアンとの関係性によって表すシニフィエが決まるから、1つだけじゃ意味がない。そこで、人は次に他のシニフィアンを手に入れる。他のシニフィアンは、世の中のあらゆるものを表す。




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