「人魂で行く気散じや夏野原」。北斎辞世の句の軽やかさが、インクのシミのように拡がる。絶筆に近い《富士越龍》は、百歳過ぎ迄生き、絵を貫きたいと書いた彼と、人魂で遊ぶ彼を二重写しにみせる。富士に心残りのようにまきつく黒い雲と、その先頭を行く龍のどこか可笑しみ、そして崇高。
日々のはざまについて、
地上でみた夢の記憶、
地中で見られた眠りのすきま、
絵画や小説、想像世界、花たちなどについて
静かに渡りを記述しています。
「人魂で行く気散じや夏野原」。北斎辞世の句の軽やかさが、インクのシミのように拡がる。絶筆に近い《富士越龍》は、百歳過ぎ迄生き、絵を貫きたいと書いた彼と、人魂で遊ぶ彼を二重写しにみせる。富士に心残りのようにまきつく黒い雲と、その先頭を行く龍のどこか可笑しみ、そして崇高。
公園の入口にスミレ? 紫の、いや、あれは殆ど野草と化しているムスカリだ。毎年、春になると小さな葡萄のようにつぶつぶとした花を咲かせる。そして毎年スミレだと一瞬間違えてしまうのだ。間違える度に去年のムスカリ、そして間違えた私とも再会して。
学校…。集団生活が苦手だったので
あまりいい思い出がありません。
ただ、もっと勉強しとけばよかったなと。
あと、本とか、映画とか、もっとみとけばよかったなと。
感受性がめちゃつよかったので。
あの頃、読んだ本や映画は、
かなり大事な大切な思い出になってる。
勉強では、古文とかだと、伊勢...
シネマ歌舞伎『天守物語』。坂東玉三郎は冒頭の天守閣から魚釣りのように侍女たちが花を露で釣るシーンを受け入れなければ、泉鏡花世界に入ることができない、ここで見る者が選ばれていると言う。これは詩の話だ。現実的整合性はないが詩的整合性がある。美への入り口への番人のような花釣り。
川の岸辺の散歩道を自転車で走っていた。川のまん中あたり、向こうからコサギが飛んできた。自転車の私とすれ違う。速度が殆ど同じだった。交差する瞬間、なにかが共鳴したように思った。あるいは共有。振り返らずにそのまま進んだ。コサギはおそらく水辺に降りているだろう。