Nicotto Town


今年は感想を書く訓練なのだ


自分の思った事、感じたままを人に伝える事って実は難しい。「なにそんなんで感動するわけ?」って事が往々にして起こりうるからだ。

三輪の山里(三寺尾の合戦その2)

2.再会天文18年(1549年)夏、武田晴信は軍勢を従えて甲府を立ち、再び佐久郡を制圧した。
そして、前山城へ入り陣を張ると信濃及び上野の平定について、今後の策略を練るための評定を行った。「西上野の小幡が助けを求めてきた、そうであったな?弾正」弾正こと真田弾正幸隆(幸綱)は、父祖の地小県を追われて上...

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三輪の山里(三寺尾の合戦その1の続き)

 しばらくすると三郎左衛門の来訪に、奥から現れた木部家付家老の増尾新兵衛尉は答えた。「如何いたした、三郎」「それがな新兵衛、小幡の話なのだが……」 三郎左衛門と新兵衛尉は、それぞれ譜代の家臣の家に生まれ、幼いころより共に育ってきた。お互い木部十騎に数えられて主範次に仕えて...

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三輪の山里(三寺尾の合戦その1 改め)

◆序文
 天文15年(1546年)山内・扇谷両上杉氏及び古河公方の連合軍は、相模北条氏との川越城をめぐる合戦に敗れた。
その頃信濃では武田晴信が佐久郡へ侵攻してくると、これに対抗するため佐久の領主たちが関東管領上杉憲政へ援軍を求めてきた。
この時、箕輪城主長野信濃守業政は、北条・武田の両氏を敵に回す...

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三輪の山里(峰法寺口の合戦 その2)

3.正念場の攻防いの一番に名乗り出たのが、長野家でも勇猛と評判の赤石豊前守盛時その人である。すると、鳴りを潜めていた箕輪武士たちも、我も我もと名乗り出でた。これを聞いた業政は、「これぞ我が箕輪武士よ」と大いに喜び、檜扇の馬印を従えて箕輪城へ帰城して行った。若田原は南の碓氷川と北の烏川に挟まれた、河岸...

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三輪の山里(峰法寺口の合戦 その1)

1.戦働きと恩賞これは”茜の吹き流しの指し物”を、木に巻き取られて難儀した武士の物語である。この指し物とは『旗指物』を指すが、これがどれ程の物であるかを、初めに語っておかねばなるまい。戦国時代の戦働きとは、主君から文書により催促されて戦地へ赴き、そして到着した事を証するその文...

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