介護日誌・春の日の戯れ
- カテゴリ: ココロとカラダ
- 2026/04/12 11:48:29
また一日、生き延びてしまった。
父は、ベッドという名の箱舟で、
遠い、誰も知らない国へ向かっているらしい。昼下がり、父の褥(しとね)を替えながら、
ふと、私の中の「悪い心」が鎌首をもたげる。
(いっそ、このまま、ひらりと)
いや、そんなことは、できない。
私は、この世で最も滑稽な、真面目な子供なのだ...
また一日、生き延びてしまった。
父は、ベッドという名の箱舟で、
遠い、誰も知らない国へ向かっているらしい。昼下がり、父の褥(しとね)を替えながら、
ふと、私の中の「悪い心」が鎌首をもたげる。
(いっそ、このまま、ひらりと)
いや、そんなことは、できない。
私は、この世で最も滑稽な、真面目な子供なのだ...
お母さん、あなたはもう、私を「誰かさん」と呼ぶことさえ忘れてしまいましたね。
認知症などという、ハイカラでいて残酷な名前の付いた霧が、あなたの頭の中に立ち込めて、
そこにはもう、私の幼い頃の記憶も、父の不器用な笑顔も、一欠片も残ってはいないのでした。癌という奴は、あなたの体を少しずつ、丁寧に、まるで...
母は、笑っていた。
私が誰かも分からぬまま、ただ、真っ白な虚空を指さして、
「きれいね」と、言った。
その顔は、私が幼い頃に見た、陽だまりのような優しい顔だった。
皮肉なものだ。
私のすべてを知っていたはずのその頭脳が、
私を殺した記憶から、静かに、優雅に、逃亡している。夜になれば、母の身体の中で、...
母は、二つの泥棒に追われていた。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。「あら、今日はどちらの御方?」
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面...
母は、一輪の向日葵のように笑って、
私の名を忘れてしまった。
それは、夏の夕暮れにふっと灯が消えるような、
あまりにあっけない、手品のような出来事であった。「どなたでしたかしら」
その丁寧な言葉の礫(つぶて)が、
私の胸の、いちばん柔らかな場所を正確に射抜く。
ああ、神様。
これは罰でしょうか。それ...