ピアノ
- 2025/07/04 21:10:05
古い住宅地の一角に、築60年は過ぎようか?というくらいの小さな家屋があった。
縦長二階建ての、かつては瀟洒だったであろうこじんまりとした造りが年代を感じさせた。
表札のほかに小さく「アマノ音楽教室」と書かれた看板が掲げてある。
中に入ると、一部屋だけ間取りの広い部屋があり、ウォールナットの縦型アトラスが二つ置かれてあった。
その部屋は長く教室として使われてきたが、念入りに防音処理が施されていたので
もちろん、この密集した住宅街にあっても苦情の心配は無かった。
「先生、よろしくお願いいたします。」
小さな女の子がひとり、レッスンに来ていた。教えているのは少し腰の曲がった老先生である。
「いい?ピアノはね、タッチが一番大切なの。2の指で押さえてごらんなさい。」
『ポーーーーンッ』
「そうそう、じゃあ、こんどはも~っと、やさし~く…」
『ぽ~‥‥』
「その時の指はね、ちゃあんと最後まで押さえきるの、鍵盤の底までね。
そうやっておいて、やさしい音が出るように練習するのよ。」
『ポー……ン』
「そうそう、そうやっていい【音】を出すタッチをまず憶えましょう。
その【音】がいいかどうか?で、同じ曲でもぜんぜん聴こえ方が違うの。
ピアノはね?ちゃんと弾いてあげれば、ちゃんといい【音】がする楽器なのよ?
だから、それを引き出してあげてね。」
「はい、先生。」
「では、つぎに拍子に合わせて…」
小さな女の子は、教えられるままに、指でピアノという楽器との対話を学んでいった。
「先生、ありがとうございました。」
「気を付けて帰るのよ、また、一週間後ね。」
「はーい、さようなら~。」
見送って扉を閉めると老先生はため息をついた。「ふう…」
この教室の教え子は、あの女の子一人だった。求められるうちはピアノ教師をつづけていくつもり
だったが、さすがに自分の体にも限りがあることを、悟り始めていた。
手も指も、かつてのように動かすことは無理だった。足もなかなか思うようには動かない。
なので、もう生徒は取っていない。
ふと、脇に目をやると、フランスのレンガ造りの建物をバックに、若い二人が写った写真があった。
「……。」
「あのときは、音楽院までわざわざ会いに来てくれましたっけね、日本から。」
「…もうすこし、…もうすこし、待ってて下さる?」
じっと写真を見て、その中の世界に話しかけるように、やさしく老先生は語った。
「あの生徒さんがね、初めてのコンサートに出るって、いま練習中なのよ。」
だから、わたしもまだピアノの先生を辞められないの。」
「ずいぶん待たせちゃってるわよねぇ…。」
「でも、もうすぐよ…。それが済んだら、もうすぐ…」
「今度は、わたしの方から会いに行きますからね。」
「待ってて。」
…思い出したように…
少しのあいだ、ショパンのノクターンが切なく儚げに揺蕩っていた。
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