禅的説法之4因果応報1
- カテゴリ:仕事
- 2009/03/29 23:27:11
仏教の大前提は、【この世は苦である】です。
仏教の四つの真理は↓です。
1【諸行無常】 2【諸法無我】 3【一切皆苦】 4【涅槃寂静】
上記の言葉で検索すれば wiki などの親切なサイトで一般論を説明してくれています。
「一般論はつまらん!」そうなので、ここでは禅のひねくれ論を書いています(笑)。
尚、当方が「荒らし」と判断した書き込みは、削除+通報させて頂く場合があります。
ご注意下さい。
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因果応報(いんがおうほう)という言葉があります。
悲しいことに、障害者に対する誹謗中傷の言葉として使われる方がおられます。
因果応報という言葉の意味が、自らの行いが原因となって、それに相応しい、報いを、
結果として受ける、というほどのものだからでしょうか。
皆さんは、ヘレンケラーという方をご存じだと思います。盲・聾・唖、見えず・聞こえ
ず・喋れない、という三重苦を背負って生まれてきた、女性です。
果たして、彼女は三重の障害を背負って生まれて来なければならない程の、極悪非道の
人間だったのでしょうか。
彼女が生まれ、その人生を全うしたことで、世界の何かが変わりました。
そう。福祉です。他者に対する思いやり、慈愛。
彼女が生まれて来たことで、人間界の福祉の概念が大きく変わりました。
私は、思います。世界規模で福祉の概念を発達させるためには、ヘレンケラーほどの障
害を持ち、世界規模の活動をする必要があったのでしょう。
きっと、ヘレンケラーは生まれてくる前に「人間界の福祉は未熟なだぁ。ひとつ、私が
障害を持って生まれ、皆に福祉の何たるかを教えてあげよう」と思ったのではないでしょ
うか。
こう考えますと、ヘレンケラーに限らず障害者の方々は、人々に福祉、慈愛というもの
教え、思い出させ、実践させるために、わざわざ不便な人生を選んで生まれて来たとも言
えるようです
多くの健常者は、障害者を見たとき、次の様に思われるのではないでしょうか。
・かわいそう ・醜い ・私でなくて良かった
別に、恥じることはありません。自然な反応です。
しかし本当は、健常者の方が、他者に対する思いやり、慈悲と愛情が足りないことで、
・かわいそう ・醜い ・私でなくて良かった
と思われているのかも知れませんね。
詭弁だ! と思われますか? (詭弁:きべん)
もし、詭弁だと思われる方は、障害者施設等でお手伝いなどを経験されてみると良い
ですよ。自分の知らなかった自分に出会えるかも知れません。
この世は苦である。だからこそ、少しでも苦が減るように、努力したいものですね。
合掌
(21年4月10日 追記)
ヘレン・ケラーは、先天性ではなく、
生後19ヶ月にして、病気により障害者となる。
ヘレンさんが選ばれたのではなく、ヘレンさん自らが選んだのでしょう。
ヘレンさんが、福祉を伝えるために、自らそういう人生を選んだのだと考えています。
陰陽は背中合わせというのは、単なる現実に過ぎません。
現実を、良いとか悪いとか解釈するのは人間の勝手で、
本来、この世に善悪などないのでしょう。
善悪という概念自体が、人間の作り出したモノに過ぎませんから。
コメントありがとうございました。
確かに不幸なことではありますが、ヘレンさんを通じて「福祉」というものをこの世につたえたかったのではないでしょうか?
ある人の本で読みましたが、この世は「陰と陽は背中あわせ」(私流解釈ですが)とありました。
いいことがあるってことは悪いこともあるということですか?
「悪いことは必要」、あるいは「悪いことはいいこと」だと思います。(難)
ヘレンさんの苦を乗り切ることが僕には出来るだろうか。
見えない・・。目を閉じると体験することが出来る。その気持ちの中には目を開けば光が必ずあると
いう安心感の中の体験。ぼくも目を怪我してしまい(眼球破裂)、大勢の障害者というより病人?の中、生活を2週間しました。いまは手術で回復しました^^目が見えないと、ほんと第六感的な感覚が鋭くなる。気配を感じたりするんですよね、前に何かあるっていう。まぁ、マネキンも人も区別するのは長い経験が必要でしょうけど。
耳が聞こえない・・・。目の見えない人が言っていました。もし失くすとして目と耳だったら、目をなくすと。
自分の心臓の音さえ聞こえない恐怖。耳を塞いだだけでは経験できないですよね。情報が耳から入ってこないって想像以上だとぼくはそのとき思いました。耳が聞こえないってことはもちろん言葉も発することはできないのは必然だとおもいます。
むずかしいことは苦手ですが、目が見えなく耳が聞こえない。もう、肌のぬくもりしかないんだって思いました。今さらですけど;;こんなふうにヘレンケラーさんのことをまじめに考えたことなんてなかったです。
少しでも苦が減るようにか・・・。苦であることを当たり前に受け止めるぐらいでいいんですよね?
なんだかぼくはそんな風に感じました。
ご指摘、ありがとうございます。
検証が疎かになり
浅学を露呈してしまいましたね。
注記を追加致しました。
これからもよろしくお願いします。
因果応報、という言葉はおそらく、自戒のための言葉としての側面を強く持っているのかなと思います。
善行は良きことを、悪行は相応の不幸を報いとして我が身に招くのであるから、小さなことであっても、
日々の行いには相応の責任を持たなくてはいけない、という。
他者の境遇を指して使われることもありますが、私欲のために他者を顧みず勝手な振る舞いをして
痛い目を見た者に対してならともかく、本人に責任のない障害などを指してその言葉を使う者こそが、
いつか因果の報いを受けることになるのでしょう……自業自得、とも言いますね。
ところで、なのですが。ヘレン・ケラーの三重苦は、生まれつきではなかったかと。
詳しくは覚えていませんが、確か、非常に幼い頃にかかった熱病が原因で視覚と聴覚を失い、それで
言葉を得ることもかなわなかったのではなかったかと思います。
書かれている内容には特に影響ないと思うのですが、一応ちょっと突っ込んでおきたくなったので(笑)
長々と失礼しました<(_ _)>
コメントありがとうございます。
この様な問題に、私たちは弱いですよね。
ついつい逃げてしまう。
でも、現実的に直面してしまうと・・・
やっぱり逃げてしまいがちです。。
しかし、直視しないと行けないことですよね。
私とは何か、私たちとは何か、直視して、よくよく考えないと。
答えは人それぞれで、正解なんかないのですが・・・
不正解はあると思うのです。
胸中複雑に思い悩むこと
悩み続けることが大切なのかも知れません。
合掌
私の息子より1ヶ月だけ先に生まれましたが、この3年間、明らかに発達に違いがありました。
近所なので子どもだけで互いの家を行き来して遊ぶことも多く、
比べるつもりはなくても違いに目がつくことがあります。
障害に注目することなく、彼女のすべてを彼女として接していこうと思いますが
胸中複雑な思いがあるのも事実です。
禅さんの論を詭弁だとはいえないと感じています。因果応報という見方はできません。
彼女のことも、そして友人やご主人のことも・・・。
何が言いたいのか自分でもわかりませんが、色々考えるきっかけを下さったブログでした。
長々と失礼いたしました。