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生きる{4}

そこには、鍋の中の味噌の香りと、囲炉裏に差し込まれた川魚の串刺しの焼ける匂いがほんのりと漂い、どこか郷愁を誘われる、雰囲気に満ちていた。


常和は、「お邪魔します」と、挨拶しながら居間に入った。

二人は、笑顔で常和を迎い入れ、囲炉裏の席に座るように促す。みつは、グツグツと音を立てて煮えている汁を、椀に注ぎ、「いかがですか」とね、差しだす。常和は、「ご馳走になります」と、受け取った。口を近づけると、せり、三つ葉、などの春を告げる山菜の香りが、ほのかにした。まず、知るを飲んでみる。味がとても良く出ていて、口の中に染み込むように広がり、とても美味しい。

みつは、年の頃30歳半ば。この郷に来て、5年ほどになるという。妻に先立たれた、名主平蔵に見初められ、後添えに入ったのである。平蔵とは、親子ほどの年の差である。常に笑顔を絶やさず、微笑んでいるツルを見ていると、観音菩薩に見えてくる。二人は、周囲の者たちが羨むほど、仲睦まじい。

ミツを、この郷に連れてきたのは、常次郎である。

常和は、本当に仲の良い平蔵とみつを前にして、常次郎から聞いた、彼女を連れてきた経緯を、思い返している。

常次郎は、諸国へ旅をして、説法して歩く傍ら、農業の指導をして歩く人物である。また、別の面も持っていた。それは、無刀流という、武芸者としての顔である。五年前の3月に、陸奥国の中通りを、北から南へ移動していたとき大地震が発生する。その揺れのあまりの激しさから、五日程前に訪ねた浜通りの村々に津波が押し寄せてくると予感して、馬を走らせた。

案の定悪い予感がした通り、丘の上から目に入ってきた風景は、元の姿をとどめてはいなかった。常次郎は、丘から下へ続く細い道をたどり、降りていく。家屋も、田畑も、草木も、すべて高波に飲み込まれ、ただの平地となっている。どこかに生き残った人はいないだろうか。四方八方目を凝らしてみるが、そのような気配をうかがい知ることはできない。

だが、かなり遠方に、津波の力に負けず枝々を天に向かって伸ばし、生き残った一本の大木が、視界に入った。常次郎は、その樹木を目指して歩き始める。そして、少しづつ近づくにつれ、その大木の下にうずくまっている人影が、明らかになってくる。

女であった。茫然自失、憔悴しきった状態で、何かをブツブツと呟いている。近づいた常次郎の耳に、彼女の言葉が、聞こえてきた。「みんな死んでしまったのに、私だけどうして生き残ったの~~~~~~~」

女は、同じ言葉を、何度も何度も繰り返している。しかし、近づいてくる人の気配に気づき、呟くのをやめた。見れば、一昨日この村で、説法を施した者である。女は、常次郎に会えたことで、気持ちが少し落ちいたのか、生き残ることのできた経緯を、かすかに聞き取れる声で途切れ途切れに話し始めた。

村は、一瞬にして、波に飲み込まれたという。瞬間、海中でもがいたが、流木にしがみつき、波の表面に浮き上がり、陸に向かって流された。しかし、流木は障害物に妨げられ、行く手を阻まれる。それが、大木であった。女は、流木から大木に体を移して、夜を明かした。そして、津波の引くのを待って、下に降りてきたというのである。

女は、夫も子どもたちも両親も家族は皆、津波に流されてしまった。一人ぼっちになってしまった。私だけがどうして生き残ったのかーーーーー、これからの人生をどう生きればよいのかーーーーー、さめざめと泣いている。その姿を見ていた常次郎は、慰め元気づけるかのように、「私は、関東は房総に、自分が理想と考える村を作っているが、私と一緒にその村に行き、身も心も休ませてはどうか」と、言葉をかけた。

体力も思考能力も、限界に達していたのだろうか。女は、そうしたいと、意思表示するかのように、小さく頷いた。女は、その場を去るとき、大木に頬ずりして、「命を助けて頂き、ありがとうございます」と、呟いた。

その時、大木の声が、聞こえてきたのである。

「この人物は、信ずるに値する男だ。ついて行くが良い。ソナタには、楽しくて明るい未来が待っておるぞ」

常和が、平蔵とみつの表情を眺めながら、常次郎から聞かされた、みつがこの村に来た経緯を思い返していると、「何をそのように、我々の顔を、しげしげと眺めているのです。何か良からぬことでも、思っておいでなのでしょうか」と、平蔵が、言葉を発し笑っている。

「いやぁ~、本当に仲の良い夫婦だと、感じ入っていたところです」と、常和は返事ををする。みつさんの観音様のような微笑みの奥にある、真実について思っていたところです、とは言葉に発する前に心にしまい込んだ。

常和は、居間の様子が、いつもと違っていることに気づく。多恵の姿が、見えないのである。「多恵は、どうしているのでかすか」と、二人に尋ねる。

「先程まで、元気に遊び回っていたのですが、体を動かしすぎて、疲れたのでしょう。遅い昼食の後の、昼寝の最中です」と、隣の部屋を指差す。

静かに襖を開けてみると、中央に子供用の布団が置かれている。そっと近づいてみると、多恵が、すやすやと寝息を立てている。丸々と太り、とても健康そうだ。

隣の部屋に戻ると、常次郎が囲炉裏の座に加わり、何やら平蔵と話し込んでいる。多分、田植えの段取りについてであろう。明日は、村人が総出で、田植えを行う予定だ。その陣頭指揮を取るのが、常日頃村人たちに、農業の指導をしている常次郎である。

常和は、平蔵とみつに、「ご馳走様でした」と礼を言い、常次郎には、「お先に」と告げ、居間を出た。そして、縁側伝いに進み、先程この屋敷に入ったときに脱いだ踏み石の上のわらじを履いた。それから、踏み石伝いに庭を横切り、長屋門を出る。

常和の目に、真っ先に飛び込んできたのは、虹であった。北の空に東から西へ描かれた、目の覚めるような太く大きな、虹であった。それも、一部分もかけていない、このような完全な形をしたのを見るのは、初めてのような気がするーーーーーーーー。「いや、初めてではない」、常和は、呟いている。心の深い底の底で、自分を離れた無我の状態で、その美しさの本源を思い出そうとしているようである。

あまりの虹の美しさに圧倒され見とれている常和の背後から、「きれい~ー」と、カタコトが聞こえた。振り返ると、いつの間にか目を覚ましたのか、みつに手を引かれた多恵がいる。みつに、あれは虹というんだよ、と教えられて、「にじさんきれい」と、幼児言葉を繰り返している。常和は、「本当にきれいな虹だね」と、返事をする。

昨年の秋以降、溜め込まれた池の水が、扉が開かれて、あたり一面の田畑に、静かな音を立てながら流れ込んでいる。農閑期の間、乾いていた水田が潤され、時々吹いてくる微風がさざ波を立てている。あぜ道に咲いている、菜の花、レンゲ、アヤメ、などの草花がかすかに揺れる。ため池の水面を彩る大輪の蓮の花が、長い茎に抱かれて、美しい姿を見せている。

みつに手を引かれた多恵が、花畑の中を溢れんばかりの笑顔を振りまいて、戯れ遊んでいる。

常和は、あたりの空気に心身が溶け込み、一体となっていくのを感じている。そして、おもむろに、常に携帯している笛を取り出し、口に当てて、吹き始めた。誰かに教えられたという、訳ではない。京都大原の竹林で遊ぶうちに、いつとはなしに手頃な竹を切り、それを縦笛にして鳴らすことを覚えた。





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