禅的説法之8_自殺
- カテゴリ:仕事
- 2010/01/09 22:20:12
自殺について。
私が考える仏教では、特別な行為ではありません。
自分が、自分を、創る。造る。作る。
自分の欲望が、自分の行いを決め、行いが、未来の自分を決める。
その繰り返し。
もしも、ある条件下に於いて、自殺したいという欲求が生じ、それが実行されるのならば、
生まれ変わった次の人生、または、次の次の人生、または、いつか未来の人生で、
ある条件、即ち、死にたくなるような条件が揃った時に、また自殺する。
いつか、その人は、「自殺したくない」という欲求を、潜在的に持つことになるだろう。
彼は、自ら好んで死にたくなるような辛い人生を創るだろう。条件を揃えるために。
それを乗り越え、「自殺したくない」という欲望を叶えるために。
自殺しない という選択をするまで、その人は「自殺したくない」という欲求を持ち続け、
生まれ変わり、死に変わり、自殺したくなるような人生を選び、自殺を続けるだろう。
ただ、それだけのこと。
万物も人も、ただ、在るべくして、在るように、在るだけのこと。
願わくば、苦しみ少なき人生を選ばんことを・・ 合掌
【追記】
禅的説法之7 輪廻転生 も併せてお読み下さい。
ブログカテゴリ 「仕事」です。
【追記2】22.01.11
「友達限定」の方が良いのでは とのご指摘を何人かから頂きましたが、やはり「一般に公開」のままとします。
通報されるかされぬかは分かりませんが、ブログタイトル及び一行目に、「自殺」、という、運営側が注意している単語が記されておりますので、必然的に運営側の目には止まっていることと思います。
運営側から何らかの指導がありましたら、それに従う所存です。
尚、だからと言って、公開の是非に関するコメントはするな、という意味ではありません。
ご指摘下さった方々、ありがとうございました。 合掌
>「友達限定」ではなく「一般公開」だからこそ、
>みみずくさんからのご意見も頂けるわけですよね。
知らない人からの意見をもらうのは別に間違いじゃない。
でもな、下で問題にされた論点は「自殺願望者の目に触れていいかどうか」
じゃないのか?
ま、オレも、これは友達限定にすべきだと思う。
誰もが、人のいうことをすべて理解できるわけではないし、ましてや誤解することは多々ある。
下のコメントの返答を読むと、誤解されることもありえる、と理解してるのだろう?
ならば、どっちをとる?見た人が誤解して自殺する可能性か、見た人がほぼ意図したとおりに
意見を汲んでコメントしてくれる可能性か。
こんだけ時間たってから書くのは何だが、そういうことじゃねえかぃ?
確か、禅の言葉には六味詳しからざれば典座にあたうべからず、という言葉があるんじゃあねぇの?
貴女との交流は以前にお断りしているハズです。
書き込みは(できれば訪問も)これを最後にして下さい。
>何故生きていなくてはいけないのですか?
>所詮、人生は蝶の夢に過ぎない
人生が蝶の夢であっても、
蝶の夢の中の蜂の夢であっても、
今は今。
ここはここ。
今、ここ、にアナタはいて、今、ここ、にしか存在できない。
夢が醒めようが、死んであの世に行こうが「今、ここ」であることは変わりません。そこで、アナタは自分を創り造り作り続ける。
そこで、在るべくして、在るように、在るだけ、なのです。
>私が死ねば世界は消滅する
>違いますか?
ここに、ABCDの4人の世界があったとしましょう。
そこには、4つの世界が存在します。
1:Aさんの世界 A+(Ba+Ca+Da)。
2:Bさんの世界 B+(Ab+Cb+Db)。
3:Cさんの世界 C+(Ac+Bc+Dc)。
4:Dさんの世界 D+(Ad+Bd+Cd)。
この世は、常に生成と消滅を繰り返しています。
もし、Aさんが死ねば、1のみが消滅し、その後、世界は3つになって続くだけです。即ち、
1:Aさんの世界 消滅 → 他の世界へ
2:Bさんの世界 B+(Cb+Db)。
3:Cさんの世界 C+(Bc+Dc)。
4:Dさんの世界 D+(Bd+Cd)。
人は皆、同じ世界を生きていると思っていますが、実は、それぞれに異なった世界を生きている(と思います)。
また、人は誰しもいつかは死にます。Bさんの世界もいずれ消滅し、CDさん達の世界から消え去るでしょう。同様に、CDさんもいつかは死に、その世界も消滅するでしょう。
でも、死ぬ人がいれば生まれる人もいるわけで、人が生まれれば、新たな世界が生じ、他者の世界の中にも加えられる。そうして、世界は続いていく。
>この世は大いなる仮想空間、私の夢に過ぎないと思われてなりません
アナタの世界はアナタのもの。アナタがそう思うのでしたら、
アナタにとってはそうなのでしょう。
私が思うには、アナタは、自分の足を自分の足下に置かず、他者の上に置いているので安定しない。そんな気がします。
以上です。以前にお話した理由により、貴女とは交流できません。これを最後にして下さい。
所詮、人生は蝶の夢に過ぎない
私が死ねば世界は消滅する
違いますか?
この世は大いなる仮想空間、私の夢に過ぎないと思われてなりません
時間のない中お返事ありがとうございます。
動植物の中で自ら命を絶つという行為をする生き物はいるのでしょうか。
生きる為に生まれ、死ぬなんて目もくれず、生き抜く。
人間は、生まれたときから死に向かって進むなんて悲観的な考えをする。
もしかしたら、自殺をできるということは悟るに近いものがあるのでしょうか。
悟りが何かもわからない僕は叱られる事覚悟です。
命懸けで生きる。そう決めた人はどれだけいるのだろうか。
命懸けで悩んでしまう状況は健康的だろうか。
なにが健康で不健康か。
思いついたことを書き連ねてしまいすいません。
人も、動物も、植物も、生きているモノは、死ぬまで生きている、というのが
当たり前なんですよね。
でも、人間は、ただ生きているだけ、というわけには行かないみたいなの。
人間には、幸せが必要なんだ。
必要なものがないと、当たり前が、当たり前ではなくなってしまう。
困ったモノです。
人を幸せにする、一番良い方法は、自分が幸せになること。
幸せな人を見ていると、幸せな気分になるでしょ?
感情って、感染するから、自分が不幸になると、他人も不幸にしちゃう。
世の中には、幸せになりにくい人も沢山いるから、幸せになれる人は
しっかりと幸せになろう。その幸せを、他人にも分けてあげられるように。
そうなれば、だんだんと、幸せの輪が広がっていくんだろうなぁ。
コメント ありがとうございました。
いろいろと考えたのですけれど、はやり(仏教的)一般論になってしまったようです。
一般に私たちは「自殺」という言葉によって、自殺を考えます。
一般論として「自殺はイカン」と、言葉にしてしまいます。
でもね「死というもの」に直面すると、一般論なんて役に立たないのですよね。
一般的な人、なんて、現実にはいませんから。
自殺であれ、病死であれ、事故死であれ、およそ「死というもの」の現場には、
当人の人生がそこにあり、その方と共有した、それぞれの方の人生がそこにあり、
そして、遺された方々のこれからの生がそこにある、ということを思い知らされま
す(たとえ当人が命を取り留めたとしても)。
そうは言っても、死は誰にでも訪れるもの。
そうは言っても、死は誰しも考えたくないこと。
だからこそ、「死」をしっかりと考える機会は必要だと思うのでした。
それと・・・
「私が自殺したら、アナタは嫌な思いをすだろう。そんなこと、分かっています。
でもね、私は、命懸けで悩んでいるのです。命懸けで」。
「死ぬか・生きるか、ということを」。
命懸け、なんですよ。
コメント ありがとうございました。
●池さん
その勇気を、生きる方に向けることができたら、もっと素晴らしいでしょうね ^^
コメント ありがとうございました。
でも生きることは簡単じゃないし
いろんな悩みとか苦しいこと悲しいこともいっぱい
それを感じることができるのが人間のいいところだけど
でもさ、できるなら楽しいほうがいいよね
みんなが幸せに生きれたらそれが一番いいのになぁ・・・
去年、身近に二人も自ら命を絶った知人がいたもので仏教的にそれはどうなのか。
許されることなのか、それとも大罪なのかどうか。
逃げる逃げない、迷惑迷惑じゃない。
君、どうしたんだ?最近元気が無いじゃないか、悩んでいることがあるなら話してみろよ。聞いてあげる事しか出来ないかもしれないけど・・・。って声を掛けたところで、止められないかもしれない。
でもさ他人は他人、僕は僕的な考えはどうかと思うよ。
痛烈に自殺者を非難するのであれば、もっと温かい言葉を掛けれる余裕を僕は持ちたい。
後悔しか僕には残らない。自らの手で自らを殺す行為をする人を僕の周りからは出したくない。
僕は自殺が怖い。
世の中に良いとか悪いとかのカテゴリーしかなければ僕は自殺を選ばなければ生きていけない。
意味不明ではありますが、思ったまま書いています。
公の場で自殺という言葉を使うことに抵抗がありましたが、隠語でもないし立派な社会問題ですよね。
自ら自分の命を絶つという行為、今自分を置いてしまった現実から逃げる。
それは次に生まれ変わったとしても同じことか・・・。肯定も否定もないですね、確かに。
自殺はいけないこと。自殺はいいこと。的な発想はできないですよね。
今の僕は自殺が出来ない。怖いから。その事柄より、勝ることがないから。
社会と繋がっているから生きなければいけないという責任が発生しているように思えます。
その逃げることの出来ない責任とやらを全うしなければ死ねないと考えます。
もし、社会から孤立し、イジメなどもそうですが僕の死に対してだれも関心を持たなくなったとしたら・・・。
一概に言うことは出来ませんが。
生きているからゆえ、死ってすぐそばにいて、ちょっと手を伸ばせば死ねるんですね。
怖いけど。
「友達限定」ではなく「一般公開」だからこそ、
みみずくさんからのご意見も頂けるわけですよね。
自殺を巡り、逡巡している人の中には、多くの方の意見というものを
求めている方もおられるでしょう。
だいたい15歳くらいにもなれば、多くの人が一度くらいは自殺を考た
ことがあるだろうと思います。
色々な方のご意見が寄せられた方が、今、自殺を企図している方にも、
これから企図されるかも知れない方にも、参考になると思います。
そして、願わくば、茨の道であっても、歩み続ける選択をされることを。
コメント ありがとうございました。
●ぴろさん
はい。多くの場合「短絡的、且つ、楽な方を選ぼう的」な問題解決法は
実は問題の解決にはなっていなくて、後ほど、さらに問題がこんがらがって
困った状況に陥る、単なる先延ばしになっていることが多いのですよね。
コメント ありがとうございました。
●みささん
今の日本には、死生観 というものが欠如しているのだと思うのです。
どうも、私たち日本人は、臭い物には蓋をする、的な発想が強く働いて、
考えたくないことに関しては思考停止してしまう傾向があるのかも知れません。
「いかに生きるか」ということは「いかに死ぬか」と同義だと思うのですね。
そういった意味で、死生観というものを考えると、どうしても人生の意味
とか、そういうのが出てきてしまいます。
古代から面々と続いていながら、如何なる天才にも答えの出せなかった問題に
直面したからといって、思考停止しないといけない理由はありませんよね。
それでも私たちは生きているのですから。
「自死という生き方」私も興味があります。読まれましたら、感想など
聞かせて頂けると幸いします ^^
コメント ありがとうございました。
●YUKOさん
おそらく、自殺を考えたことがある人は多くいると思うのです。
つまり、多くの人が、自殺を考えながら、それを乗り越えて
今日という日を生きているのですよね。
そういうことだと思うのです。
コメント ありがとうございました。
でも、自殺は自分だけの問題じゃないから・・・・家族、親族、友人全てを巻き込むから・・・
ミミズクさんの意見に同感です。
輪廻転生の思想が興味深いです。禅さんの言葉は分かりやすいですね^^
今回の生の中で自殺しないことを選択して、良い流れに乗りたいです。
自殺願望があった学生の頃…苦い思い出です。
最近出た、哲学者の書いた本『自死という生き方』という本が気になります…。
苦しいループに入ってしまうということなんですよね。
自殺して死んでそまえば楽になると思ったら、大間違いで
苦しいループに入ってしまうので、できれば回避したほうがいい
ということなんですね(あってますかね?)
よく学校などで命を大切にと漠然と言いますが、若い子は実感ないんじゃないかな。
この話の方が説得力あるなぁ、と思いました
せめて「友だち限定」の公開にすべきだと思うわ。
自殺企図の最中にある人の目に触れると
禅はその後押ししているなんていうような誤解をも生みかねない。
こんなところにも意外に多いものよ、自殺企図している人って。
おっしゃってることには同感できるわ、あたしは。
まさしく「ただ、それだけのこと」。
死ぬも生きるも本人の自由よ。
因果応報というのかしら? その報いなり代償なりを受けるのも本人だわ。
でも「自殺」はいけないわ。
本人以外への影響が大きすぎるのよ。
企図でも未遂でも完遂でも
身内だけでなく、友達や友人、オンラインで少し話してるのをみたことがあるだけの知人にさえ
数年に渡る病状の悪化を強いていくわ。
経験談よ。
冗談じゃないわ、人を巻き込むような死に方は、肯定出来ないしして欲しくはないわ。
はい そうです。
ただ、この世には、極端な場合というモノが儘あるものです。
自殺というモノも、その極端な場合の一つですよね。
何をどう判断して、どう行動するのか。結局、その判断基準は、どこまでも持ち越して
しまうということです。
私は自殺を、否定も肯定もしません。
結局、どんな判断による行為であろうとも、本人が納得するかどうか、だけの問題だと思います。
行為の結果を受けるのは、そして、その未来を生きるのは、本人なのですから。
コメント ありがとうございました。