夏休みの宿題の思い出②
- カテゴリ:勉強
- 2011/08/19 10:43:07
つづき~
晩年、やかましい姉妹も一人亡くなり、二人旅立ちと最後は末の妹が訪ねてくるだけになっていた。
そんな中、殆ど広島を出ない祖母が突然に息子娘の家をたずねる旅をすると言い出した。
まず、東京の私の所で一週間滞在し、東京勤務になっていた息子と末娘である母と会う。
その後、東北へ向かい長女の家に滞在予定であった。
私は広島から東京までの道のりを付き添いをするために広島へ向かった。
広島から東京へは飛行機を使うし、足が悪くなりあまり動けなくなっていた祖母なのでとても一人では移動が困難であったからである。
すでに就職していたので、祖母に会うのは久々であった。
そして、広島について祖母を見たときにまずおもったのが
『おばあちゃん、すごく老けた・・・』であった。
足が悪くなって動けなくなると人間は急激に老けるのだと強烈に思った瞬間であった。
東京に滞在し、息子とも会い、一週間後東北に向かった祖母であるが、長女に会った直後に倒れた。
そのまま入院したが意識は戻らず、そのまま帰らぬ人となった。
最後に自分の息子や娘に会い、痛みもないまま綺麗に人生の幕を閉じた祖母であった。
『最後に、皆に挨拶をしたのね』
安らかな顔を見ながら、私の叔母である長女はそうつぶやいた。
地元のお寺で葬式をする事になり、遺体は広島に運ばれた。
小さくなった祖母をみて、私は泣きに泣いた。
多分、孫の中で一番泣いたのは私であろう。
祖母の亡骸から離れる事ができたのは30分後であったと思う。
特にとりえがあるわけでもなく、皆に分け隔てなく優しさを与え、地域のみんなにササキのおばちゃんと愛された祖母。
参列者は700人を越えたと、後に寺の住職様から聞かされた。
『芸能人でもないのに、これだけの方が集まったのは、ササキさん・・・いえあえて言いましょうササキのオバちゃんの人柄によるものですね』
と。
その後、祖母の住んでいた家は誰も住むことがないので取り壊された。
三回忌の時は綺麗にコンクリートで舗装されていて、あのぼろぼろの家は跡形もなくなっていた。
更地になった場所に立ち、こんなに狭かったのかと改めて思った。自動車が二台ぎりぎり入るぐらいであろうか。
『このあたりが台所で、こっちが便所。ここを回ってここら辺が階段だよね。二階のこのあたりに机があってさ、夏休みの宿題をよくやったなぁ・・・』
母にそんな話をして更地になった場所から空を見上げると、私の広島のイメージ通りの青く快晴の空が広がっていた。
そして、ここで寝泊りする事も、勉強することもできないのだなと改めて思ったのである。
関係ない事であるが、私も含め孫は5人いるがその全員がひ孫どころか結婚相手すらだれも祖母に見せることは出来なかった。
おばあちゃん孝行は何も出来なかったと一例として追記しておこう。
夏休みの宿題とは全く関係ない話になっちゃいました。
なんとなく宿題といったら祖母の事を思い出したので書きなぐったものです。
別にしんみりしなくていいですからね~。
おばあちゃんにとっては、
子と孫の顔が見れるだけでも嬉しいものでしょうから、
十分孝行できていたと思いますよ。
おばあちゃん孝行なんて、孫として産まれただけで充分できてると思うb
夏休みの宿題なんて・・・ろくな思い出がない人も多いのに・・羨ましいなぁw
用務員のおじさんになっていた記事で激怒していましたが…
このお題ブログが素敵だったので、
今回は冬のボーナス搾取だけで勘弁してあげますね。
私も読書感想文は苦手なので…
しゅーひさんのお祖母様、アッパレ!という文章しか浮かばなくてスミマセン┏○))
優しいおばあちゃんだったんだね~
うちの祖母は厳しい人だったのでうらやましいな
(↑そのぶんおじいちゃんが甘かったケドwww)
田舎っていうものにも憧れます♪
こうやって時々思い出すことが
おばあちゃん孝行になるんじゃないかなぁ~と思いますよ?
私もおばあちゃんっこだったので、これ読んで、涙が出ちゃいました。。
大正生まれの芯のしっかりした大和撫子魂が、余生の生き様にみてとれます。
すばらしい女性でしたね、にいさまのおばあさま。。
きっと今でも、にいさまのそばで見守ってくれていますよ?
すずには、感じられます。
やさしい面ざしが・・・
ものすごいパワーを感じるわ。
最後に、会えてよかったね。
きっと、このブログを書いているときに
近くにいたと思う。そして、ニコニコと笑っていたはず…
しかし。
弔問に700人…。それって、ホントにすごいねえ~@@
あ~~~。特に暇ではないけれど読んでしまったではないか。
巡回、12時前に終わらなかったらみろりんのせいってことでb
私は子供の頃から読書が好きで、読書感想文は大の得意でしたww
その私から言わせて頂けるならば、読書をする事は人の考えを知る事、自分の見聞を広め、多方面から物事を考える力がつく事、漢字の勉強にもなるし、こういう場面ではこういう言葉を使えばいいんだ、と色々役に立つ事が多いし、人の考えを知り、自分の見聞を深める事で、人間関係は豊かに充実した物になると私は思います。
そう言う事を学びとるために読書感想文はあるんですよ、先生の監視では無いはず・・・って私に言われたくないですよねwww
自分が命をかけて産み育てた子供達に。
たくさんの方に愛され 最期の時間も 自分で予感するものがあったのかもしれませんね。
後になって不思議に思うことって あるもんね。
しゅーひは、おばあちゃん孝行できたね^^
お家は なくなっても 覚えてるものだよね。思い出を大切にね^^
遠くてお墓参りができなくても おばあちゃんのことを思い出すだけで 供養になるし
そばに感じられるんだよ~
私も父方の祖母とは、小さい頃一緒に住んでたので あんなこともあったなぁー。。なんて
思い出してしまいました。
優しいおばあちゃんが大好きでした^^
母方の祖父母も 大好きでした^^
ちなみに 読書感想文は得意でした(笑)
今は、きっとそこから、おばあさまがしゅーひさんを見守っていらっしゃるのでしょう。
ステキなブログをありがとうございます^^
読書感想文なんて、大嫌いです><w
古いおばあちゃんの家って、特別でしたね〜w
夏休み、子供だけで泊まりに行ってよく遊んだものだw
(10人以上のいとこが集まるものだからww)
数ヶ月、一緒に暮らしてたけど、
仕事から帰ってきたときの、
「えらかったねえ」の一言が懐かしく思えるw
そういうおばあちゃんの存在って、すごく大切だと思います。
娘にも、そういうように・・・おばあちゃんとおじいちゃんと思い出を作っていって・・・と思いますが、
ま、私の思うようにはなかなか行きませぬ(-_-)
人の死を真近で感じたのはその時でした。
お寺の住職さんは祖父と同い年で、祖母のお葬式の時、私はお経を唱えるご住職の絵をクレヨンで描きました。
祖父もあのご住職も亡くなり、人の死と向かい合う経験を何度しただろう・・・と思いました。
祖父の亡くなった晩、月がとても赤くて大きかったのを覚えています。その月をずっと見ておりました。
「もっと祖父にしてあげられる事はあったのに・・・」と思った事を思い出しました。
私の祖母は、、あっけなく交通事故で、亡くなってしまったので、、まだ元気だったのにね〜ーー;
文才のあるしゅーひさんとさえらさんが、感想文が苦手って、信じられん。。。@@;
妹の宿題をやっつけた話になったのだけど・・・
もし「夏休みの思い出」というお題だったら
間違いなく祖母の家を書いていたと思う
いまだに間取り図を書けるくらい覚えてる祖母の家
妹の宿題には苦労したけど、自分の宿題なら
7月中に終わってた~
でも、読書感想文なんて代物だけは大嫌いだった
『辟易する』という言葉の意味を学んだね
自由課題の作文で表彰された次の年・・・
「コンクールに出す為の読書感想文を書いてみて」
なんて言われた日には、自分を恨んだものです
広島の抜けるように青い夏の空は
ササキのオバちゃんの人柄のように
いつも明るいんだろうね
快晴の青空の向こう側に
あったかい笑顔が見えるような
そんな気がする文章でした