東京高輪泉岳寺義士祭
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- 2021/12/14 14:41:07
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こんにちは!九州から東海、北陸は晴れるが、関東は一部で雨。
北日本は夕方から、日本海側を中心に雨や雪となる。沖縄は晴れる。
【東京高輪泉岳寺義士祭】
☆泉岳寺には赤穂浪士と浅野長矩夫妻の墓があります。
義士祭では、墓前で読経供養がなされ、多くの一般参拝者が訪れます。
献茶式も行われます。
<概要>
〇赤穂浪士討ち入りの日
12月14日の忠臣蔵・赤穂浪士討ち入りの日です。
東京高輪の泉岳寺では、その赤穂四十七士を祀る義士祭が開催をされます。
@最寄り駅
都営浅草線の泉岳寺駅です。
★海
以前は駅から泉岳寺入り口までは徒歩数分の緩い上り坂で、
海が見えたそうです。
@境内
境内には、テントや露天が多くみられまして、
参拝客がとても多いようです。
山門前からは、本堂を通り墓所までの長い列が境内を取り巻くようです。
〇墓所
赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公や、
討ち入りに参加をしました赤穂四十七士のお墓があります。
墓所脇には討ち取りました吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)公の
首級を洗いました首洗いの井戸があります。
また、浅野内匠頭が切腹をなされた時に血を浴びました
血染めの石や梅を見ることが出来ます。
〇赤穂義士記念館
境内にあります赤穂義士記念館には、討ち入り当日に
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんがお書きされました直筆の
義士連名書状や浅野公の墓前に備えました吉良公の首級を
翌日に吉良家へ帰した際に受け取りました受取状等、
当時の実際を思わせるような興味深い資料が今に伝えられております。
@貴重
関東大震災では倒壊をしましたが、
東京大空襲では類焼を逃れたというところです。
対面側にあります義士木像館に展示をされています木像群からも
江戸時代のセンスを感じられるようです。
〇浅野内匠頭長矩公
播磨赤穂藩の第3代藩主です。
@官位
従五位下・内匠頭です。
官名から浅野内匠頭と呼称されることが多いです。
@赤穂事件
江戸城本丸大廊下におきまして、
吉良義央公に対する刃傷とそれに続く赤穂浪士で良く知られています。
〇吉良上野介義央公
高家旗本の吉良義冬の嫡子です。
*高家・・・江戸幕府の儀礼等を司る重職。
母は、酒井忠勝公の弟公の忠吉さんの娘であります。
*酒井忠勝公・・・小浜藩主(現代の福井県小浜市)
@生まれ
寛永18年(1641年)9月2日、江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれます。
@吉良氏
室町幕府を開きました足利市一門にて・・・
「御所が絶えれば吉良が継ぐ」
このようなことをいわれまして、
将軍家が断絶しました際の筆頭継承権を有する名門です。
徳川家康公の三河統一戦の頃からの付き合いもありまして、
それが故に江戸幕府からも高家としまして重んじられていました。
父の義冬公の実母及び父方の祖母が今川家の出身です。
☆血筋
・今川義元公
・北条氏康公
・武田信虎公
上記3名の血を引いています。
@幼名
三郎さんです。
通称:左近さんです。
〇結婚
明暦3年(1657年)12月27日に、
従四位下侍従兼上野介に叙任されます。
翌年1658年の4月には、上杉景勝公(現在の新潟県)の
お孫様の富子さんと結婚をします。
そして米沢上杉家との血縁関係を築きます。
*富子様・・・当時の米沢藩主(現在の山形県)の上杉網勝公の妹君
名家の血を引き、東北の雄藩の上杉公とも深い関係強化を果たし、
上野介公は、諸芸に秀でた若者に成人しまして、
徳川家綱将軍公や後西天皇といいました公武の頂点に立つ
御歴々に立ちます方々と謁見する等、高家御曹司としまして
その才覚をいかんなく発揮をしました。
〇大石内蔵助(大石良雄)
@誕生
1659年(万治2年)4月24日に赤穂藩家老の
大石良昭さんの御長男として生まれました。
★苦労
幼くして父親を亡くしました為に、
祖父の養子となりまして、
祖父の死後は、赤穂藩の家老見習いとして働きます。
@あだ名
21歳の時に正式な筆頭家老となります。
大石内蔵助は、平凡な人物でありましたようです。
ですので・・・
「昼行灯(ひるあんどん)」というあだ名が付けられています。
☆昼行灯
昼は行灯を使用する必要が無いことから、
役に立たない人を意味しています。
*行灯・・・照明
@剣術と儒学を習う
1692年東軍流剣術を学びます。
1693年京都にて伊藤仁斎さんから儒学を学びます。
〇刀傷事件
1701年幕府から天皇の接待役を任じられました
主の浅野長矩公が刀傷事件を起こします。
@切腹・取り壊し
浅野長矩公は切腹、浅野家は取り壊しという処分に対しまして、
相手の吉良義央公は、無罰という幕府の処置の差に、
赤穂浪士たちは納得を出来ませんでした。
@嘆願(たんがん)
大石内蔵助さんは、浅野家の名誉回復を幕府に嘆願します。
しかし、聞き入れてもらえずに浅野家は解体となってしまいました。
そこで、主君の名誉回復が叶わないと悟った大石内蔵助は、
翌年に旧赤穂藩士の同志たちを率いまして、江戸城へ向かいます。
そして仇敵であります吉良邸に討ち入りまして、
吉良義央公の首をとることに成功を致します。
〇最後
大石内蔵助さんは・・・
1703年3月20日(元禄16年2月4日)に切腹して亡くなります。
*享年・・・45歳です。
@歌舞伎
以後、大石内蔵助さんは、この赤穂事件を取り上げました人形浄瑠璃、
歌舞伎で有名となりました。
★人形浄瑠璃
「仮名手本忠臣蔵」です。
問題 泉岳寺は東京都23区の何区にありますか?
1、港区
2、品川区
3、中央区
〇泉岳寺
曹洞宗江戸三ヶ寺萬松山 泉岳寺といいます。
@御本山
二つあります。
・一つは、道元禅師が開かれました福井県にあります永平寺です。
・もう一つは、横浜市鶴見区にあります総持寺です。
@主著(しゅちょ)
道元禅師は、仏教の神髄を表しました「正法眼蔵」という
95巻に旦る書物を主著にしています。
@創立
慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を
拝請(はいせい)しまして徳川家康公が外桜田に創設しました。
*門庵宗関和尚・・・今川義元公ののお孫様
*外桜田・・・現在の警視庁周辺
@焼失
寛永18年(1641年)寛永の大火により焼失をしてしまいます。
そして現在の高輪に移転します。
@復興
時の将軍、3代将軍家光公が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見られ、
5大名に命じます。
☆5大名
・毛利公
・浅野公
・朽木公
・丹羽公
・水谷公
この5大名の協力の元、出来上がりました。
これが浅野家と泉岳寺との出会いです。
ヒント 同区にあります建物等
・東京タワー
・愛宕神社
・迎賓館
・アメリカ合衆国大使館
・東京ジョイポリス
お分かりの方は数字もしくは泉岳寺が東京23区内の
どの区にありますかを、よろしくお願いします。
ノエママン、お忙しいお時間のところ、こうしてコメントとお答えをありがとうございます。
そうですか?泉岳寺には2回参拝なされましたか。
おお~、流石ですね~、御朱印を頂きましたか。
はい、勿論行かれたことのありますノエママン、いうまでもなく大正解です。
あはは、なるほど~、確かにですねw
そうですね、同じ23区内でも真逆ですものね。
そこは何ともですが、江戸川区には江戸川区の良さがありますよ。
どうぞかなり冷えますので、ご体調には気をつけてくださいませ。
車のガラスが曇っていましたので、朝方は相当寒いはずです。
火曜、オツカレちゃ~ん☆彡(_´Д`)ノ~~オツカレ♪
泉岳寺はねぇ~、2回参拝してるよぉ~ん♪(^_-)-☆
モチ♪御朱印も頂いてるよぉ~ん☆彡(*´艸`*)
1、港区☆彡(^_^)v
まぁ、東京都在住ですから~☆彡ぶひゃひゃひゃひゃ♪(≧∇≦)
って、まるっきり真逆の江戸川区在住だけどぉ~♪┐(´∀`)┌ヤレヤレ
港区なんてオシャンティーな大都会、全~然ご縁がないぜ~ッ♪ε- (´ー`*)フッ