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豆撒き

ニコットおみくじ(2023-02-03の運勢)

おみくじ

こんにちは!全国的に日本海側は雲が広がり、

北陸から北海道では雪の降る所も。
太平洋側は概ね晴れるが、関東は雲が多い。
沖縄は曇り。

【豆撒き】 まめまき Bean‐Throwing

☆豆撒きとは節分の日に行います鬼払いの行事です。

<概要>

〇節分(せつぶん)

「鬼を追い払って新年を迎える、立春の前日の行事」です。

立春の前日になりますが、立春の日付は年により異なります。
その為、毎年2月3日とは限りません。

@二十四節気において

 立春は新年の始まりで、節分は大晦日的な日です。

 旧暦の大晦日とも日付が近く、
 江戸時代までは同じように一年の締めくくりの日でした。

 *日が近く・・・時には重なることもありました

 鬼を追い払います行事は「おにやらい」「追儺(ついな)」という
 宮廷の行事が発祥です。

 [追儺]

  鬼やらい、なやらい等いいます。
  日本では節分の豆撒きをこの名称で呼びますことが多いですが、
  本来は疫鬼(やくおに)を追い払います行事です。

  中国での「周礼(しゅらい)」によりますと、
  熊の皮を被りまして黄金の4つ目の面を着用しまして、
  黒衣に朱裳(しゅしょう)を着用しました方相(ほうそう)氏という
  呪師が矛と楯を手にしまして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を
  行ったといいます。

  日本には追儺は陰陽道の行事として取り入れられまして、
  文武天皇の慶雲(きょううん)3年(706年)に、
  諸国に疫病が流行しまして百姓が多く亡くなりましたので、
  土牛(どぎゅう)を造りまして大儺(おおやらい)を行なったというのが
  初見であります。

  「延喜式(えんぎしき)」等によりますと、
  宮中では毎年大晦日の夜、黄金の4つ目の面を被りまして、
  黒衣に朱裳を着用しました大舎人(おおとねり)の扮(ふん)します
  方相氏が右手に矛、左手に楯を持ちまして疫鬼を追い払ったといいます。
  
  この除夜の追儺は恐らく大祓(おおはらえ)の観念とも
  結び付きまして展開したものと思われます。
  その他、寺の衆正会(しゅじょうえ)の際にも
  この鬼やらいの式が行われました。

  一方、民間の鬼やらいは2月の節分に行われまして、
  豆撒きが盛んであります。

  中には大晦日に豆撒きを行う例もあります。
  追儺には、大晦日や正月の鬼やらいの行事をいう場合と、
  2月節分の豆撒きをいう場合があります。

  慨しまして日本の民俗におけます鬼に対します観念は複雑で、
  豆撒きも鬼を追い払うのではなく神への散供(さんぐ)と考えられまして、
  単に疫鬼や悪鬼というだけではなく、
  むしろ悪霊を抑えます力強い存在(善鬼)とみるようなところがあります。

 殿上人(てんじょうびと)と呼ばれます身分の高い貴族が
 桃の弓、葦の矢を持ちまして、
 鬼に扮しました家来達を追いかけまして逃走させるというものでした。

 おにやらいは、宮中ではだんだんと廃されまして行われなくなるのですが、
 各地の寺社が形を変えつつ受け継ぎまして、庶民に浸透していきました。

〇豆撒きの由来

@豆

 「魔を滅する=マメ」に通じまして、語呂が良いからです。

@神農本草経(しんのうほんそうきょう) 中国の医書

 「豆は鬼毒を消して痛みを止める」とある為です。

@投げつけると痛い

 五穀(米、麦、粟、黍(きび)、豆)を投げつけますと痛いからです。

元々日本には散供といいます穀物をばら撒くことで
お祓いやお清めをします考えがありました。

豆撒きには「鬼を打ち払う」という意味と、
「豆を投げ与えまして恵み、静まってもらう」という二つの意味があります。

五穀には霊力がありまして、撒いた場所は清められまして、
聖域になるという考えがあるからです。

その為・・・

「福は内」では室内にも向かって投げて、その豆を拾って食す訳になります。

鳥居清長(とりいきよなが)さんが1805年頃描きました浮世絵には、
撒いたものに喜んで群がります鬼の様子が描かれています。

《鳥居清長》 1752年ー1815年

 江戸中期の浮世絵師です。

 鳥居家4代目当主で、天明(てんめい)期(1781年~1789年)を
 代表します美人画家です。

 江戸の本材木町一丁目の書肆(しょし)白子屋市兵衛さんの子で、
 関氏、俗称新助さん、のちの市兵衛さん。

 *関氏・・・一説には関口氏

 鳥居家3代目の初代清満(きよみつ)さんは門人です。

 1767年(明和4年)頃から鳥居派伝統の筆法を用いました
 細判紅摺絵(ほそばんべにずりえ)の役者絵を発表します。

 1775年(安永4年)頃からは美人風俗画の揃物(そろいもの)や、
 黄表紙(きびょうし)等、版本の挿絵も精力的に描き出しまして、
 初め鈴木晴信(はるのぶ)さん、のちの礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)や
 北尾重政(しげまさ)さんの画風を吸収しながら、
 次第に写生に基づきます独自の様式を樹立します。

 1781年頃には湖竜斎さんに代わりまして美人画の第一人者となりました。
 背が高くすらりと伸びやかな八頭身の、
 健康的で生命力に溢れているのが清長美人がの特徴です。

 1782年(天明2年)から1784年頃に制作しました
 「当世遊里美人合(とうせいゆうりびじんあわせ)」、
 「風俗東之錦(あずまのにしき)」、「美南見(みなみ)十二侯」は、
 清長の三大揃物として高く評価されています。

 そして・・・

 この頃から制作されるようになりました大判二枚続、三枚続といいます
 大画面にも意を注ぎます。
 江戸時代の実景を背景にしまして、
 女性群像を巧みに表現しました秀作が多いです。

 また一方では、舞台図に新様を開拓しまして、
 複数の役者を大道具、小道具とともに描き出しまして、
 緊迫感のあります構成美を生み出しました。
 
 特に所作事の場面を太夫と三味線弾きともども描写した
 出語図(でがたりず)には、他の追随を許さぬものがあります。

 師の清満さんの死後、
 1787年頃に懇請されまして鳥居家4代目を継承します。
 やがて歌麿さんと共に一つの頂点に立ちます絵師として
 位置づけられることになります。

問題 節分の日に魔除けとして柊(ひいらぎ)の枝に、
   鰯(いわし)の頭を刺しました「柊鰯(ひいらぎいわし)」があります。

   柊を使用した文学がこちらにあります。
   こちらの作者を教えてください。

1、斎藤茂吉(さいとうもきち)さん

2、新見南吉(にいみなんきち)さん

3、椋鳩十(むくはとじゅう)さん

〇柊鰯

初め:大きな柊を文武天皇が伊勢大神宮に奉じました記録があります(797年)

意味:邪気が柊の棘を恐れまして、
   鰯の頭の腐敗臭に驚きまして逃亡することを願い、
   今日まで受け継がれています。

〇柊に関しました作品

「ひひらぎの 白き小花の咲く時に いつとしもなき 冬は来むかふ」

ヒント・・・〇正解の人物の記念館

      生地山形県上山市金瓶の南の丘に、
      1968年(昭和48年)9月に開館しました。

      代表作の赤光(しゃっこう)は阿弥陀経から採りました。

      @電車では

       JR奥羽山脈「かみのやま温泉駅」から
       山形方面 バス10分 → 「正解の作者記念館前バス停」
       下車約徒歩5分です。

お分かりの方は数字もしくは作者をよろしくお願いします。




 



 

 





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